『ドゥランダル作戦』の魅力(高倉嘉男)
従来、ヒンディー語映画界でスパイ映画といえば、業界最大手コングロマリット、ヤシュラージ・フィルムス(YRF)のアーディティヤ・チョープラー会長が製作する「YRFスパイ・ユニバース」の作品群が代表的だった。シャー・ルク・カーン、サルマーン・カーン、リティク・ローシャンなど、ヒンディー語映画界切ってのトップスターが主演し、その大半が日本でも劇場一般公開されてきた。YRFスパイ・ユニバースで看板作品を持つことは、大スターの条件になっていると表現しても過言ではない。
YRFスパイ・ユニバース
タイガー 伝説のスパイ(12)
タイガー 甦る伝説のスパイ(17)
WAR ウォー!!(19)
PATHAAN パターン(23)
タイガー 裏切りのスパイ(23)
WAR/バトル・オブ・フェイト(25)
Alpha(インドで2026年7月3日公開、日本未公開)
YRFは業界の老舗でもあり、我々がイメージする「インド映画」の形成に多大な寄与をしてきた。その作品はヒンディー語映画界が伝統的に培ってきた大衆娯楽映画のあるべき姿をもっともよく体現している。すなわち、スター中心の大予算型映画であり、リアリズムよりも映画館での集団鑑賞の価値が最大限になるべくスペクタクル重視で演出され、インドの統合と国民の融和を揺るがない価値観として堅持している。そのため、YRFが送り出すスパイ映画群においても、主人公となるスパイたちは他を圧倒する知力と戦闘力を誇り、美女もイチコロのルックスを引っさげ、どんな絶体絶命のピンチも悠々と切り抜ける運の良さまで持ち合わせている。おまけにダンスまでうまい。いわば万能の存在である。スパイならば目立ってはいけないはずだが、YRFスパイ・ユニバースのスパイはそんなことお構いなしにスターのオーラをそのまままとっており、観客は「待ってました」とばかりに彼らのド派手なアクションやキレキレのダンスに拍手喝采を送る。インドにとってライバル国家であるはずのパキスタンのスパイとも恋愛、結婚、協力関係になり、より巨大な悪に立ち向かうというお決まりの筋書きもYRFスパイ・ユニバースらしさであった。
そのYRFスパイ・ユニバースが存続の危機を迎えているのではないかとささやかれている。理由は、2025年から26年にかけて相次いで公開された2部作のスパイ映画が、時代を180度変えてしまったからである。それが、『Dhurandhar』(25)と『Dhurandhar: The Revenge』(26)だ。前者については2026年7月10日より邦題『ドゥランダル作戦』と共に日本で劇場一般公開された。この2作品(以下、『ドゥランダル作戦』シリーズと呼ぶ)は公開と同時に次々と記録を塗り替え、特に第2部『Dhurandhar: The Revenge』の世界興行収入は『バーフバリ 王の凱旋』(17)や『プシュパ 君臨』(24)を抜き、インド映画史上最大のヒット作『ダンガル きっと、つよくなる』(16)に肉薄している。

(C)Reliance Industries Limited, Mumbai, 2025. All Rights Reserved.
では、『ドゥランダル作戦』シリーズにどんな新規性があるのだろうか。何が受けたのだろうか。
まず挙げられるのは、『ドゥランダル作戦』シリーズのストーリーが、1999年以降に印パで発生した実際のテロ事件やその他の出来事を組み込んで構築され、リアリティーがある点だ。第1部の『ドゥランダル作戦』に限れば、1999年のインディアン航空814便ハイジャック事件、2001年のデリー国会議事堂襲撃事件、2008年のムンバイ同時多発テロ事件などである。それぞれの事件が単体で映画やドラマになったことはあったが、それらを有機的に結びつけ、芯の通った物語にまとめ上げたところに『ドゥランダル作戦』シリーズの新規性があった。それに、それらはインドの国家的威信が大いに傷付けられた大事件であり、この時代を生きたインド人ならば誰しもが何らかの形で心にトラウマとして抱えている。それらがつなぎ合わされることで、『ドゥランダル作戦』シリーズのストーリーはインド人の心にリアルに響く。フィクションだと頭では分かっていても、一般的なスパイ映画に比べて物語へののめり込み具合が全く違うのである。油断をしていると、映画で描かれた内容が「暴露された真実」なのではないかと錯覚されるほどだ。このリアリティーは、確かにYRFスパイ・ユニバースにはなかったものである。
シリーズの題名になっている「ドゥランダル作戦」とは、何らかの事情で通常の生活を送れなくなった有望な人物をスパイとして養成し、敵国に送り込んで、内側から対インドのテロを未然に防いだりテロ組織に打撃を与えたりすることを目的とした諜報作戦である。主人公のハムザは、士官候補生ながら殺人事件を起こして死刑判決を受け、諜報機関に拾われてドゥランダル作戦の一員となり、パキスタンの商都カラーチーでテロ組織への武器調達を行う現地マフィアに潜入する任務を受ける。ハムザより前に潜伏していたインド人スパイはいたものの、家族や友人から完全に切り離され、見知らぬ土地で正体を隠して生きるハムザの絶望的な孤独感が第1部では特にじっくりと描き出される。この孤独感は、YRFスパイ・ユニバースのスパイたちにはほとんど見られなかったものだ。マフィアへの潜入に成功した後も、一気に壊滅に動くのではなく、じっと我慢しながら、ひたすら観察し、監視し、選択肢が生まれたときには、少しでもインドの国益になる方向に組織の決定を誘導していかなければならない。もちろん、『ドゥランダル作戦』シリーズでスパイの現実が完全に正確に描き出されたわけではないだろう。だが、少なくともそれまでヒンディー語映画界で支配的だったYRFスパイ・ユニバース風味のお気楽なスパイ映画群に比べたら、『ドゥランダル作戦』シリーズの方が現実に近いことは想像に難くない。『ドゥランダル作戦』シリーズが提示したスパイの圧倒的リアリティーを体験した後では、YRFスパイ・ユニバースのタイガーやパターンといったセレブなスパイたちが単なるジョークに見えてしまう。もちろん、『ドゥランダル作戦』シリーズはアクション映画でもあるので、ひたすら潜伏し続けるだけでは成り立たず、銃撃戦や格闘戦も描かれる。その描写でもあくまで現実主義が貫かれている。南インドのアクション映画にありがちな、物理法則を無視したアクションのようなものはない。

(C)Reliance Industries Limited, Mumbai, 2025. All Rights Reserved.
リアリティー重視の作りは、インド映画が誇り、YRFスパイ・ユニバースが軸足を置くスターシステムと対極にあるものだ。『ドゥランダル作戦』シリーズには、ランヴィール・シン、アクシャイ・カンナー、サンジャイ・ダット、アルジュン・ラームパール、Rマーダヴァンといったスター俳優たちが出演している。だが、『ドゥランダル作戦』シリーズの彼らはいつもの彼らではない。皆、スターのオーラをそぎ落とし、完全に役になりきっている。まるで物語の中のキャラクターを演じるために生まれてきたかのようである。ハムザが主人公の物語でありながら、ハムザだけにスポットライトが当たり続けることはない。脇役たちにもきちんと個性が与えられ、見せ場があり、それぞれにバックストーリーが感じられる。各キャラが生きているため、彼らの暮らす世界が現実感を伴って構築され、ストーリーに奥行きが出ている。これは、カルト的人気を呼び起こす映画に共通して見られる要素で、アーディティヤ・ダル監督による徹底的なこだわりの賜物であろう。今後、このシリーズには、ハムザ以外のキャラを主人公にしたスピンオフ映画などが作られる余地も残っている。ダル監督の前作『URI/サージカル・ストライク』(19)との接続性や関連性も既に指摘されている。
さらに、『ドゥランダル作戦』シリーズは、インド人のプライドを直接刺激しにきていることも特筆すべきである。通常の勧善懲悪映画では、悪役は主人公を侮辱したりその家族を殺したりして恨みを買うわけだが、観客にとってそれは、感情移入できるかどうかは別として、あくまでフィクション世界の他人事だ。よって、一定の距離を置いて鑑賞できる。この仕組みは、インドの古典芸術理論であるラサ理論を援用して説明することも可能だ。だが、『ドゥランダル作戦』シリーズは、インドの国家的威信を傷付けた実際のテロ事件を使って、インド人の愛国感情に直接触れている。特に1999年のインディアン航空814便ハイジャック事件のシーンでは、パキスタン人テロリストに「ヒンドゥー教徒(インド人)はどうしようもなく臆病な奴らだ」と言わせている。しかも、この辺りのシーンで急にカメラ目線になるが、これは意図的なものだろう。フィクション世界と現実世界を隔てる、いわゆる「第四の壁」を破った演出だ。インド人観客は、テロリストから直接「臆病者」とののしられているように錯覚する。「臆病者」はインドでは最大限の侮辱語である。これで憤怒を募らせないインド人観客はおらず、それゆえにますます物語に「自分事」としてのめり込むことになる。当然、その怒りの矛先は映画内の悪役に留まらず、容易にパキスタンという国家やその国民に向く。フィクションの境界を踏み越えて、インド人観客のプライドをあえて刺激し、リアルな感情を料理して現実世界をも操作しようとするこのシーンは大いに物議を醸した。やはり現実とフィクションの区別が付かない観客もいたようで、演じた俳優のSNSアカウントに攻撃的なコメントの書き込みが相次いだ。「第四の壁」の破壊は、物語のフィクション性を高める効果もあるが、物語が現実と地続きであるという意識を観客にもたらす全く逆の効果もあり、『ドゥランダル作戦』で狙われたのは確実に後者の方だ。さらに、2008年のムンバイ同時多発テロ事件のシーンでは、パキスタンの司令部とムンバイにいる実行犯の間で交わされた実際の音声も使われ、さらにリアリティーを増幅している。まるでドキュメンタリー映画のようだ。フィクション映画を現実と地続きにする演出は、YRFスパイ・ユニバースがむしろ避けようとしてきたことではなかろうか。YRFスパイ・ユニバースは、せめて物語世界の中だけでも、印パの融和と親善を見せようとしてきた。我々は隣国を選べない以上、実効性はどうあれ、隣国との平和を望むその精神は尊ばれるべきものである。だが、『ドゥランダル作戦』シリーズの「第四の壁」破壊演出は、そういう平和のメッセージを一気に「お花畑」におとしめてしまった。もはや印パのスパイが仲良く手を結ぶような描写は、覚醒したインド人観客には受け入れられづらくなってしまったのである。

(C)Reliance Industries Limited, Mumbai, 2025. All Rights Reserved.
また、第1部では婉曲的な表現に留まるが、映画は中央政府で2014年以来インドの舵取りをするモーディー首相の対パ強硬政策を支持する内容にもなっている。ドゥランダル作戦のコンセプト自体、パキスタンからの相次ぐテロ攻撃に業を煮やしてモーディー首相が宣言した「家に押し入って攻撃する(Ghar Mein Ghus Ke Marenge)」ドクトリンに従っている。インド人の心にパキスタンへの憎悪を植え付け、非暴力主義的な「戦略的忍耐」から、越境攻撃をいとわない「能動的抑止」に転換したモーディー政権を英雄視する『ドゥランダル作戦』シリーズは、特にリベラル層から、「プロパガンダ映画」のレッテルを貼られ、問題視されている。
不思議なのは、『ドゥランダル作戦』シリーズがパキスタンを敵国として名指しした作品であるにもかかわらず、当のパキスタンでも大人気になっていることだ。当然、本作は当局によって上映禁止になっているが、Netflixや海賊版などを介してパキスタンでも容易に視聴可能になっている。ちなみに、パキスタン人は一般的にインド映画(特にヒンディー語映画)好きで、その熱量はインド人を凌駕している可能性もある。だが、パキスタンを敵視したインド映画にまでパキスタン人が飛びつくこの現象をすっきりと説明するのは困難だ。第1部では、2008年のムンバイ同時多発テロ事件などでインドが屈辱を受ける場面もあったので、普段からインドに反感を抱いているパキスタン人にとっては胸のすく思いがしたというのももしかしたらあったのかもしれない。だが、第2部ではパキスタンに対する復讐が始まるのでパキスタン人には心証が悪い。それでも受けたのである。単純にパキスタンを舞台にしたインド映画だったからということも理由だったのかもしれない。カラーチーの旧市街リヤーリー・タウンをセットで精巧に再現し、パキスタン人のキャラが多数登場してドラマを繰り広げるインド映画にパキスタン人の関心が集まるのは自然なことだ。日本が舞台のハリウッド映画に日本人が関心を寄せざるをえないのを想像すればよい。もちろん、パキスタン人の間からは、作品の内容や考証についてリアリティーチェックをするなど批判的な反応もあったのだが、パキスタン人にまで「とりあえず観てみたい」と思わせるほど魅力的な作品だったことは確かである。

(C)Reliance Industries Limited, Mumbai, 2025. All Rights Reserved.
2010年代以降、特にヒンディー語映画界において、女性の地位向上、ジェンダー平等、性の多様性についての理解増進など、リベラルな価値観にもとづく作品が多く作られた。この潮流は2020年代も続いているのだが、その一方で反動も目立つようになっており、アルファ男性を主体にした昔ながらの男尊女卑的なアクション映画が蘇って、特に男性観客から熱狂的な支持を集めるようになった。『ドゥランダル作戦』シリーズは完全に男の世界を描いた物語だ。若干の女性キャラもおり、時々影響力を見せるが、限定的だ。あくまで必要悪であり、無理に女性キャラを入れてわざとらしく見せ場を作るような配慮は全くなされていない。だが、その思い切りが現代においてかえって潔く感じた。YRFスパイ・ユニバースだったら色仕掛けの女性スパイが登場しそうなものだが、少なくとも第1部ではそんな迎合は断じて許していなかった。暴力描写も過激であり、インド本国ではA認証(18歳未満鑑賞禁止)となっている。よって大人向けの映画だが、これを男性向け映画と断定する自信はない。なぜならA認証を受け、パキスタンをはじめとしたイスラーム諸国で上映禁止になったこのシリーズの全世界的なヒットは、男性観客の支持だけでは到底説明できないからである。女性観客を引き付ける何かがあったのは確かだが、それがヤリーナーなどの女性キャラにないことは確かだ。そうすると、女性観客もパキスタンに潜入したハムザの、使命感や孤独感に共感できたということだろうか。
『ドゥランダル作戦』シリーズにおいて女性キャラよりむしろ目立つのは姿の見えない女声ボーカルだ。インド映画の代名詞ともいえる豪華絢爛なダンスシーンは控えめだが、歌入りの曲がBGMとして要所で使われ、歌詞とメロディーが一体となってストーリーをいっそう盛り上げる重要な要素になっている。これは隠し味というよりも映画の主要素である。近年のインド映画としては挿入歌の数が多めの作品に分類されるのだが、全体的な特徴は、懐メロを現代的にアレンジしている点にある。古い世代には懐かしく、新しい世代には新鮮な曲ばかりで、全世代の心を巧みに掴んでいる。オリジナルの歌に頼らなくても、過去の映画音楽の膨大なストックの中からピッタリの曲を抜き出し、アレンジして並べるだけで、インド映画らしい作品を作ることができるというのは、今後模倣が続出しそうな危険な発見だったかもしれない。その中でも『ドゥランダル作戦』シリーズでは、懐メロにラップを乗せるというパターンが目立つ。その英語ラップ歌詞を担当している女性ラッパーがレブル(Reble)である。インド北東地域(ノースイースト)のメーガーラヤ州出身で、まだ20代半ばだがインドを代表するラッパーに数えられている。ノースイーストは人種的・文化的に東南アジアに近い。彼女が発する英語のラップ歌詞の発音も、日本人の耳にはどこか聴き取りやすく響く。その彼女の歌声が『ドゥランダル作戦』シリーズのオーディオ的な顔になっているのである。第1部では「モ~ニ~カ~、オ~・マイ・ダ~リン~」の歌詞が耳に残る「Run Down the City – Monica」などで歌っており、第2部で彼女のプレゼンスはさらに高まる。また、英語ラップ部分の歌詞は彼女が自分で書いているようだ。従来、ヒンディー語映画界ではノースイーストやノースイースト人はほとんど無視されてきた。だが、近年は見方が一変し、無限の可能性を秘めたフロンティアとして開拓が始まっている。レブルがヒンディー語映画の挿入歌に起用されたのはこれが初だったが、これもその変化の一環といえるだろう。そして見事に物語の世界観確立に貢献している。パキスタンが舞台のヒンディー語映画の歌をノースイーストの歌手が大々的に歌ったのは記念碑的な出来事だ。インドの圧倒的な多様性と分断の両方を知る者なら、そのすごさを直感的に理解するだろう。
『ドゥランダル作戦』シリーズの挿入歌は名曲揃いなのだが、その展開の仕方もうまかった。インド映画は伝統的に映画本編のプロモーションのために挿入歌を使ってきた。新作の公開日が近づくと、ラジオの時代には積極的にラジオ番組で歌曲が流され、テレビの時代になるとダンスシーンが切り出されて予告編として放映された。映画サントラもレコード、カセット、CDの形で発売され、話題作りに寄与し、その売れ行きによって映画本編の成功が占われた。YouTubeの時代になると音楽配給会社の公式チャンネルに新作のソングシーンやダンスシーンがアップロードされるようになり、その再生数が本編の成功の指標として扱われるようになった。ダンスシーンの場合、本編とほとんど同じ映像かそのダイジェスト版が映画公開前にYouTubeで視聴可能になることが多いが、『ドゥランダル作戦』シリーズでは、おそらく意図的に、ソングシーンの動画になるべく本編映像そのままのものを使わず、独自に編集されたモンタージュ的な映像が使われていた。これが、この曲が本編でどのように使われるのだろうかというサスペンスを生んだ。このワクワク感は久しぶりだった。そしてその使い方が期待をはるかに上回るものだったのである。
たとえば、第1部のタイトル曲「Na De Dil Pardesi Nu」の、冒頭の歌詞の意味は、「よそ者に心を許すな、毎日泣くことになるだろう」だった。この曲が本編にてどのタイミングで使われるのか楽しみだったのだが、終盤最大の佳境で流れ、その状況をこの歌詞がまさに言い表していた。「ここでこれか!」とため息が出るほど見事だった。歌詞とストーリーの一体性はインド映画が世界に誇るべき美点だが、その高度な完成形が『ドゥランダル作戦』シリーズでは見られた。本編映像をあえてYouTubeで見せず、サスペンスを作り出し、歌詞とピッタリ合う場面でここぞとばかりに流すことで、音楽的・詩的なカタルシスを生み出していた。全く脱帽である。
もはや『ドゥランダル作戦』シリーズの成功は誰の目にも明らかだ。今後焦点となるのは、『ドゥランダル作戦』シリーズが後世のヒンディー語映画およびインド映画全体にどのような影響を与えるかになるだろう。既に『ドゥランダル作戦』シリーズの成功を見て、業界内では公開秒読み段階だった作品の撮り直しや再編集が行われているという噂が流れている。『ドゥランダル作戦』が時代の空気を一変させてしまったため、新時代に合わせた作りにしないともはやヒットは望めないということだろうか。だが、二匹目のどじょうを狙った映画が連発されるようになったら興ざめであるし、あまりにリアリティー重視の風潮が席巻しすぎて、古き良きインド映画の伝統が失われてしまうのも寂しい気がする。YRFスパイ・ユニバースのようなお気楽なスパイ映画も作られ続けてほしい。どちらにしろ、インド映画史上有数の大ヒットになった『ドゥランダル作戦』シリーズは、今後長らく功罪両面から分析され続けることになるだろう。
著者プロフィール/高倉嘉男
インド映画研究家、豊橋中央高等学校校長・学校法人高倉学園理事長。東京大学文学部卒業後、2001年から2013年までインド・ニューデリーに滞在し、ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)でヒンディー語博士号を取得。2,000本を超えるインド映画レビューを発信するなど、日本におけるインド映画研究・紹介の第一人者として活動している。著書に『インド映画はなぜ踊るのか』(作品社)、共著に『新たなるインド映画の世界』『飛躍するインド映画の世界』(弊社刊)など。現在は東京外国語大学非常勤講師も兼任。
関連記事
すでに登録済みの方は こちら
