踊るメロディ、響くストーリー ―インド映画音楽の世界―(4)/小尾淳
第3章 インド映画音楽の特殊性(1)
感情を呼び起こす「ラサ」の思想
これまで2回に分けて、タミル語映画とヒンディー語映画を事例に、インド映画音楽の地域性について具体例を挙げながら紹介した。全地域を網羅することはとても不可能であるが、インドの多様性を音で感じるための入口になれば幸いである。
さて、今回からは「インド映画音楽の特殊性」というテーマで、インド映画音楽がどのような芸術観・価値観に支えられているか、世界の映画音楽とどのような違いがあるのかなど、具体例を挙げながらそのユニークさに着目してみたい。
まず、一般的な認識として、音楽には、人間の感情を直接動かす力があると考えられているだろう。力強い旋律やリズムによって勇気を与えられたり、壮大な響きによって胸が高鳴ったり、悲しみを帯びた旋律に触れて切ない気持ちになるなど、多くの人が経験していることと思う。その効果を活かし、映画音楽は、映像や物語と結びつくことで、登場人物の感情や作品の世界観を観客に強く訴える役割を果たしている。
このような「芸術によって感情を呼び起こす」という考え方は、インドでは古くから「ラサ(rasa)」という概念によって理論化されてきた。サンスクリット語で「味わい」を意味するラサとは、芸術表現によって観客の内面に実現される「美的な感情」である。
古代インドの演劇理論書『ナーティヤ・シャーストラ』[1] では、演技・音楽・舞踊などによって表現された感情が、観客の中で特定の情感を呼び起こすと説かれる。今日、一般的に知られる「ナヴァ・ラサ(9つのラサ)」[2]は①シュリンガーラ・ラサ(愛情・恋情)、②ハースヤ・ラサ(笑い)、③カルナ・ラサ(悲哀・同情)、④ラウッドラ・ラサ(憤怒)、⑤ヴィーラ・ラサ(勇気・英雄性)、⑥バヤーナカ・ラサ(恐怖)、⑦ビーバッサ・ラサ(嫌悪)、⑧アドゥブタ・ラサ(驚異)、⑨シャーンタ・ラサ(平安)である。
ここで重要なのは、ラサが単なる感情を意味する語ではないという点だ。例えば映画の悲しい場面を見て涙を流すことがあるが、観客(味わう側)は現実の悲しみを経験しているわけではない。作品によって提示された感情を、カルナ・ラサ(悲哀の美的本質)として受け取っていると考える。
ラサはいくつかの段階を経て成立すると説明される。ここではカルナ・ラサを例に簡潔に説明してみたい。ラサ理論には複数の説があり、また原典の定式ではこのような時系列ではないため、筆者による整理・簡略化ということを予めお断りしておく。
まず、前提として観客の中にはあらかじめ、過去の経験に由来する潜在的な情感の痕跡として、スターイ・バーヴァ(持続的感情)が眠っているとされる。
アーランバナ・ヴィバーヴァ:ストーリーの中で愛する人との別れや死といった、それなしにはラサの感情的基盤が成立しない根本的な出来事や要因。
ウッディーパナ・ヴィバーヴァ:辛い情景、降りしきる雨、切ない歌詞やメロディーなど、感情を高める環境的要素・刺激因。
アヌバーヴァ:演者は涙や震えなどの結果的表現を用いて情感豊かに演じる。もし、演者の意志とは関係なく自然に生じる身体的反応、つまり汗や顔の色の変化などが起きた時は、サーットヴィカ・バーヴァ(真の情感の表れ)と言って演技の最高位とされる。
ヴィヤビチャーリ/サンチャーリ・バーヴァ:演者と観客の心に共感・不安・絶望といった一時的・補助的な感情が重なり合う。
スターイ・バーヴァ:観客が元々もっている持続的な感情のショーカ(悲しみ)が呼び覚まされる。
カルナ・ラサ:それが美的体験として昇華され、観客は悲哀の情感を味わう。
このように、ラサとは演者が表現した感情をきっかけとして、観客の内に潜在していたスターイ・バーヴァ(持続感情)が呼び起こされ、美的体験へと昇華される。言い換えれば観客は現実の悲しみではなく、芸術によって普遍化された悲しみを味わい、その結果として深い感動や心の浄化を経験すると考えられている。なお、これはあくまでも理論の説明であり、実際の感情の動きはもっと複雑で、セオリー通りに行かないだろう。また、いくつかのラサがからみ合うことも多い。
余談であるが、筆者は古典舞踊バラタナーティヤムの修行期間に、インドの先生にナヴァ・ラサをデモンストレーションして頂いたが、表情や身体表現を通して情景が鮮明に浮かび、筆者の身体に鳥肌が立つほどであった。筆者も、ラサ理論を身体に落とし込んでいく中で、自分が得意なラサ、苦手なラサなど様々な発見があった。数分間同じラサを演じ続ける訓練では、筆者の場合、カルナ・ラサ(悲哀)は比較的簡単に維持できた。一方でラウッドラ・ラサ(憤怒)を維持しようとした時にはエネルギーを消耗し、ぐったりしてしまうほどであった。
インド映画俳優は、専門学校や大学での演技指導を通じて『ナーティヤ・シャーストラ』のラサ理論に触れることと思われる。しかし古典舞踊とは異なり、映画の演技はテンポが速く、また生の舞台と、撮り直しを繰り返す映像メディアとでは、求められる表現の質も自ずと変わってくる。ただ、音楽や演技が観客の感情を動かし、物語への没入を促すという点においては、ラサ理論の観点から読み解くことができる。
そのわかりやすい例として、今回はインド映画の「英雄を称える楽曲」を取り上げてみたい。これは、 単に英雄を想起させる楽曲ではなく、歌詞そのものによって特定の英雄の勇気・徳・功績などを直接的に称揚する楽曲を指すこととする。
ハリウッド映画で英雄を扱った楽曲というと、『スパイダーマン』(2002)の“Hero”が思い浮かぶかもしれない。これは「誰もが英雄になれる」という内容で、特定の人物の勇気や功績を直接的に称賛する歌詞ではない。また、『ロッキー3』(1982)の“Eye of the Tiger”も英雄的な精神・生き方を歌っているが、歌詞がロッキー個人を直接称揚するわけではない。このように、ハリウッド映画では英雄を象徴する楽曲は存在するものの、歌詞によって特定の主人公を直接的に称揚することは必ずしも一般的ではないようだ。
一方、インド映画で「英雄を称える楽曲」は物語の中核を担う存在だ。単なる演出にとどまらず、観客に英雄への共感と共同体への帰属意識を呼び起こし、地域の歴史や民族的記憶を再確認させる——そのような文化的機能を果たすことも少なくない。
物語と音楽の一体性
インドの英雄物語を核にした映画において重要になるのが、前述の⑤ヴィーラ・ラサ(勇気や英雄性)である。サンスクリット語で vīraとは、ずばり「勇者」「英雄」という意味である。ヒーローの登場、戦いへの決意、民衆の蜂起といった場面では、音楽が観客の中に高揚感や誇りを呼び起こす必要がある。インド映画における英雄賛歌は、まさにこのヴィーラ・ラサを現代的な音楽表現によって生み出していると言える。
インド映画で英雄を称える歌が受け入れられている背景には、英雄の物語を語り継いできた豊かな伝承文化があることが挙げられるだろう。『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』に代表される叙事詩から、地域ごとに伝わる王や戦士、民衆の英雄の伝承まで、人々は古くから歌や語りを通して英雄のストーリーを共有してきた。また、インドでは、歴史上の人物の功績や精神を現代に伝える文化が根付いており、先人たちの功績や理念を日常生活の中で受け継ごうとする文化をうかがうことができる。
その例として、まずタミル映画『Veerapandiya Kattabomman(ヴィーラパーンディヤ・カッタボンマン[3])』(1959)を取り上げてみたい。この作品は、18世紀末にイギリス東インド会社に対して蜂起し処刑された実在の人物ヴィーラパーンディヤ・カッタボンマン(シヴァージ・ガネーサン)を主人公にした歴史映画である。カッタボンマンはタミル地方南部の地方領主パーライヤッカーラル(英語ではポリガール)の一人で、イギリスとの徴税問題をめぐって対立し、ついに蜂起した。タミル映画初の長編テクニカラー作品であり、シヴァージ・ガネーサンの代表作のひとつとして広く認識される、タミル映画界における歴史ものの金字塔である。
劇中歌“Karantha Palaiyum”[4](搾った乳さえ)は、騎馬隊が勇ましく行進する場面で流れる。「勇者に勝利を!」と鬨の声を上げた後に歌が始まる。
搾った乳さえカラスは飲まない
カッタボンマン殿のお名前を聞けば
恵みを授ける勇ましい女神よ
聖なる言葉で恵みをくださるサッカデーヴィよ[5]
作曲家G・ラーマナータンは、カルナータカ音楽の訓練を受けず独学で音楽を体得したという。この曲では、三連のリズムを刻む太鼓の音にタミルの民俗音楽で親しまれてきた旋律が重なり、時折、吉なるナーガスワラムの音色が差し挟まれる。歌手T・M・サウンダララージャンの歌唱は、野外で歌う吟遊詩人の発声法に近く、肺活量を要する長いヴォーカリーズが印象的である。また、集団の掛け合い(コール・アンド・レスポンス)を取り込むことで、観客に共同体としての帰属意識を呼び起こす構造になっている。
現代のインド映画音楽に生きるヴィーラ・ラサ
現代のインド映画における英雄賛歌も、こうした歴史的・文化的土壌の上に成立している。次に、非公式アンケートで多く回答が見られたテルグ語映画『サイラー ナラシムハー・レッディ 偉大なる反逆者』(2019)のタイトル曲を取り上げてみたい。
主人公ウイヤーラワーダ・ナラシムハー・レッディ(チランジーヴィ)[6]は、ラーヤラシーマ地方(現在のアーンドラ・プラデーシュ地方南西の内陸部)ウイヤーラワーダの地方領主であった。1857年のインド大反乱よりも早い時期にイギリス東インド会社へ抵抗した実在の人物として知られている。ただし、これは全国的民族運動ではなく、失われた地方権力や伝統的権利を守るための抵抗という性格が強かった。
タイトル曲“O Sye Raa”(おお サイラー)[7]は、ナラシムハー・レッディのかつての恋人で、踊り子ラクシュミー(タマンナー)が歌と舞によって英雄の精神を伝える感動的なミュージカル・シーンである。「サイラー」とは、戦いへ向かう人々を鼓舞する掛け声だという。歌詞はナラシムハーを地域を代表する偉大な英雄として位置づけ、死をも恐れない勇気を称えるとともに、イギリス支配に屈服せず自由のために立ち上がる精神が高らかに歌われる。一人の英雄を称える英雄賛歌であると同時に、その英雄を媒介として人々を一つの集団的主体へと結びつける、アンセム的性格を持つ歌である。
(一部抜粋、直訳)
鎖を断ち切れ
自由のために息をせよ
その呼び声こそ、お前なのだ
それでは、この曲の前半部分をラサ理論に当てはめて考察してみよう。
1 ヴィバーヴァ(起因)
ナラシムハー・レッディがイギリス支配に屈せず、民衆のために戦うという物語上の状況が、民衆にヴィーラ・ラサ(勇気)を生じさせる起因となる。またイギリス将校が部族の女性に乱暴を働く回想シーンに、観客はビーバッサ・ラサ(嫌悪)とラウッドラ・ラサ(憤怒)も感じるかもしれない。
2 ウッディーパナ・ヴィバーヴァ(刺激因)
前半でラクシュミーの歌を吹き替えする歌姫スニディ・チャウハーン[8]の力強いボーカル、軍楽的なリズム、勇壮な旋律と男声コーラスによる「サイラー!」と反復される掛け声は、個人への称賛を集団的な熱狂へと変える。英雄そのものが直接戦う姿を見せるのではなく、恋人であったラクシュミーがその英雄の姿を歌と舞によって人々に伝えるという設定も、民衆の立ち上がる勇気を喚起する重要な要素となっている。
3 アヌバーヴァ(結果的表現)
ここは映像では捉えにくいため割愛
4 ヴィヤビチャーリ・バーヴァ(随伴する一時的感情)
ラクシュミーのパフォーマンスと群舞によって、民衆の心には興奮、期待、決意、誇りなどの感情が重なっていく。ラクシュミーの回想シーンではナラシムハーの「神は君に民衆を団結させる芸術の力を与えた」(直訳)という台詞が挿入され、ラクシュミーの表情にシュリンガーラ・ラサ(愛情)も見て取れる。
5 スターイ・バーヴァ(持続的感情)
こうした刺激と表現を通して、ヴィーラ・ラサの基礎となるウッサーハ(勇気・意気・奮起)が観客の心に呼び起こされる。ここで重要なのは、観客の心の中にまるで自分事のように勇気や奮起の感情が生じることである。
6 ヴィーラ・ラサの成立
最終的に、英雄への称賛、音楽、舞踊、掛け声、物語が一体となり、観客は英雄ナラシムハーの勇気を自らの感情として追体験する。その感情が美的体験として昇華されたものがヴィーラ・ラサである。
今回は切り口を変え、ラサ理論に着目してインド映画音楽の特殊性を考察した。インド映画の英雄賛歌が強い印象を残すのは、地域で共有してきた歴史の物語が込められているからである。ミュージカル・シーンは、共同体の記憶や誇り、自由への願いを音楽によって共有する場となり、観客はそこに自らの感情を重ね合わせる。そうして喚起された感情はラサとして美的に味わわれ、深い感動を生み、ときにカタルシスへと導いていく。
[1] 伝統的に『ナーティヤ・シャーストラ』の著者は聖仙バラタとされている。成立時期については紀元前〜3世紀と諸説あり、はっきりとはわかっていない。
[2] ダンサーによるナヴァラサのデモンストレーション 参考映像:https://youtu.be/BzSnQSDfYfg
[3] 「勇敢なるパーンディヤのカッタボンマン」の意。古代から中世にかけて南インド・タミル地方を支配したパーンディヤ朝(Pandya)の王ヴィーラパーンディヤンに由来する。ただし、カッタボンマン自身はパーンディヤ朝の末裔ではない。テルグ系の出自を持つ父親が在地の領主ジャガヴィーラ・パーンディヤンに仕えており、後継者のいなかったジャガヴィーラの後を受けて、カッタボンマンの一族がその地位を継承したとされる。
[4] 『Veerapandiya Kattabomman』(ヴィーラパーンディヤ・カッタボンマン)(1959)より“Karantha Palaiyum”(搾った乳さえ)参考映像:https://www.youtube.com/watch?v=wix6j8G1Efg
[5] カッタボンマンの領地パンチャーランクリッチの氏神。
[6] レッディ(Reddy)はテルグ語圏で長い歴史を持つ土地所有・農業・政治的有力コミュニティで、中世には王朝を築き、近代以降もアーンドラ社会で大きな影響力を持ってきた。
[7] 『サイラー ナラシムハー・レッディ 偉大なる反逆者』(2019)より“O Sye Raa”(おお サイラー)参考映像:https://www.youtube.com/watch?v=56qfU6_CR9U
[8] 主にヒンディー語映画で活躍する女性プレイバックシンガー。タミル語映画でも『ギッリ/百発百中』(2004)の"Sha La La"(シャララ)や『カッティ 刃物と水道管』(2014)の“Selfie Pulla”(セルフィー・ガール)などで知られる。
著者プロフィール/小尾淳(Jun Obi)
インド文化研究者。大東文化大学准教授。専門は南インドの芸能・宗教文化・映画音楽。タミル語映画の字幕監修を数多く手がけ、『響け!情熱のムリダンガム』『PS1 黄金の河』『ツーリストファミリー』『ヴィクラム』などに参加。著書に『近現代南インドのバラモンと賛歌』では、第38回田邉尚雄賞(東洋音楽学会)を受賞。
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