踊るメロディ、響くストーリー ―インド映画音楽の世界―(1)/小尾淳

インド文化研究者でタミル語映画の字幕監修でもお馴染みの小尾淳による連載記事「踊るメロディ、響くストーリー ―インド映画音楽の世界―」第1回目をお届けします。
インド映画タイムズ 2026.05.02
誰でも

序章 映画音楽と共に生きるインド

インド映画音楽との出会い

「ハム アープケ~ ヘーン コ~ン…!」都内のとあるインド料理店のフロアに、そのメロディは四六時中流れていた。ヒンディー語映画『Hum Apke Hain Koun …! (私はあなたの何?)』(1994・未)のタイトルソング[1]である 。若きサルマーン・カーン[2]と超人気女優マードゥリー・ディークシト[3]主演のロマンティック映画で、空前のヒットを記録した。過言ではなく、当時の「インド人なら誰もが知っている」規模の“国民的メロディ”といえよう。

さて、筆者は学生時代からインド舞踊家を志し師匠のもとで稽古に励む傍ら、足かけ6-7年にわたってインド料理店のフロアでアルバイトをしていた。どうせ働くなら、少しでもインドに近い環境に身を置きたいという安直な考えであった。1990年代にお世話になった店では新旧のヒンディー語映画のサントラカセットやCDをリピート再生していたため、アルバイト中は常に映画音楽を聴き続ける環境にあった。冒頭の『私はあなたの何?』には10曲以上の挿入歌が収録されており、憂いを含んだタイトルソングよりも、楽し気な“Didi Tera Devar Deewana”(姉さん、あなたの義弟は夢中になっている)の方がコック達には断然人気があった[4]。通常、レストランのBGMは、客がリラックスして食事を楽しめるよう流されるものであるが、この場合はインド人スタッフに対する配慮もあったと思う。実際、北インドのアーグラーやアーメダーバード出身のコック達は、異国の言葉もほとんど通じない環境で昼夜働き、常にホームシック気味であった。1990年代はインターネットも普及しておらず、ビデオ通話も一般的ではなかった時代であり、彼らにとって母語の映画音楽は大事な活力源だったに違いない。

また、1997年頃、インド帰りのお客さんが「インドで大ヒットしている映画の曲だよ」とあるアルバムをかけてくれた。『Raja Hindustani』(ラージャー・ヒンドゥスターニー、1996年・未)の挿入歌“Pardesi Pardesi Jana Nahin”(見知らぬ人よ、行かないで)だった 。アーミル・カーン とカリシュマー・カプール 主演のロマンティック映画で、当時「史上最高のブロックバスター」と評された作品だ。民謡のような旋律とパーカッションのゆったりとしたリズムが心地よかった。この曲もまた、インドの至る所で聞かれたであろうし、切ない歌詞ではあるが結婚式や披露宴のダンスパフォーマンスでも人気だったという。

ただし、当時はこれらの作品を日本で観る機会はなかった。日本においてインド映画は サタジット・レイ作品を除き、映画祭などで限定的に上映されていたものの一般上映は皆無に近く、輸入ビデオソフトの入手経路も知る人ぞ知るという状況であった。このように映像作品が国境や上映環境に制約されていた時代においても、音楽はカセット、CDなどの独立した商品として越境し、筆者のような外国人にも受容されていたのである。

状況が変化したのは1990年代後半で、1997年には娯楽映画として実に43年ぶりに『ラジュー出世する』(1992)が日本で劇場公開され、翌1998年には『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1995)が大ヒットを記録し、インド映画は俄かに注目を集めることとなった。実際、私がバラタナーティヤムを習っていた先生はインドのムービーダンス指導の先駆けであり、『ムトゥ~』のヒット以降は認知度が飛躍的に高まり教室は賑わい、フィルムソングの音で溢れていた。

映画音楽という「記憶装置」

インド舞踊の修行を経て、筆者は南インド古典音楽(カルナータカ音楽)を体系的に学ぶべく2004年から2007年まで南インドのタミル・ナードゥ州に留学した。カレッジは州都チェンナイから約320km離れた古都タンジャーヴール県北部、カーヴェーリ河畔のティルヴァイヤールという町にあった。映画『’96』(2018)や『メイヤラガン 美しき人』(2024)をご覧になった読者ならタンジャーヴールの長閑な雰囲気を想像できるかと思う。筆者より一回り若い同級生たちはご多分に漏れず映画音楽が大好きで、休み時間にフィルムソングをよく歌ってくれたものだ。ちなみに、当時は『百発百中 -Ghilli』(2004)が大ヒット中であり “Appadi Podu”(その調子でやれ)[5]をはじめとするサウンドトラックが街なかで流れていたのを思い出す。また、1998年に日本で観て感動した『ボンベイ』(1995)の“Uyire Uyire”(愛しい人)[6]を留学先のタミルの地で聴いた時は感慨深いものがあった。

日本の街なかでも、有線放送の流行曲や懐メロ、クリスマスソングなどが流れてくることがある。そうした音楽は、商店街や公共空間の雰囲気を形づくる背景音として、人びとの日常に溶け込んでいる。一方、インドに目を向けると、音の風景は大きく様相を異にする。宗教歌謡を除けば、街頭や市場、交通機関などで耳にする音楽のほとんどが映画音楽で占められていると言ってよい。映画音楽はスクリーンの内部にとどまるものではなく、都市空間や生活世界へと拡張し、大衆の日常的経験の一部として機能している。インド映画音楽は、映像作品の付随物という枠を超え、大衆文化を形づくりながら発展してきたのだ。

時は流れ、筆者は2025年12月、チェンナイでフィールドワーク中に、著名な音楽監督イライヤラージャーのヒットソングを演奏するトリビュート・コンサートを鑑賞した。彼は半世紀前に映画音楽の世界に登場して以来、南インド全域の映画音楽に革新をもたらし続けた。カルナータカ音楽のラーガ体系を骨格に据えながら、西洋のオーケストレーションや電子音楽を大胆に融合させたそのアプローチは、当時の映画音楽の常識を根底から覆したといえよう。その影響力はあまりにも大きく、後世の音楽監督たちが作品の中でイライヤラージャーの楽曲をオマージュしたソングは、今日においても枚挙にいとまがない。コンサートで最初の一音が鳴り響いた瞬間、イントロクイズのように聴衆が一斉に歓声を上げる。曲によっては会場全体がひとつの合唱になり、また別の曲では、それぞれの想い出に浸っているようだった。

特定のメロディを耳にした瞬間、その曲が流行していた時代の情景、感情、文脈がよみがえってくるという経験はないだろうか。言い換えれば「記憶装置」としての音楽である。日常に溶け込むインド映画音楽はまさにその装置として、人々の人生の節々に刻み込まれている。日本人である私でさえ、1990年代に飽きるほど聴いた歌をインド料理店の空気とともに鮮明に思い出せる。インドで生まれ育ち、映画音楽とともに人生を歩んできた人々にとって、それがいかに深い体験であるかは、想像に難くない。

インド映画音楽と向き合う

インド文化研究者の道を歩み始めてから、映画音楽について考察する機会が増えた。最初にお声がけ頂いたのは2018年で、『バーフバリ王の凱旋』(2017)完全版のパンフレット、次いで『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1995)4K&5.1chデジタルリマスター版の上映に際し、それぞれの音楽分析と音楽監督について各パンフレットに寄稿した。2022年には『響け!情熱のムリダンガム』で、そして不朽の名作『シャンカラーバラナム不滅のメロディ』(1979)についてはウェブ上で解説を執筆させて頂いた。また、民間の講座でも様々な映画音楽を取り上げてきた。

映画音楽に限らず、音楽関連の論文を執筆する際に毎回苦心する点であるが「鳴り響く音」の素晴らしさを言語化することはとても難しく、筆者の場合は歴史、宗教、民族音楽、社会的機能などの側面から客観的に考察することが多い。近年の研究テーマは、古典音楽が商業映画の中でいかに継承され、変容し、また革新されてきたかという問い、映画音楽の中でタミルの民族意識がどのように醸成されてきたかといった問いである。

むろん、本連載は研究論文ではないので、もう少しライトにインド映画音楽の世界を多角的に考察していきたいと思う。音楽監督の変遷、プレイバックシンガーという職業、ラーガとの関係、歌詞の詩的構造、映画音楽と社会の相互作用など、いずれも一筋縄ではいかない豊かなテーマである。できる限り多くの煌めくフィルムソングに光を当てたいと思うが、対象はあまりにも膨大であるため、筆者の専門である南インド映画、特にタミル語映画を中心に据えることをあらかじめお断りしておきたい。読者の皆さんにも、きっとお気に入りの一曲があるはずだ。この連載が、その一曲への理解と愛着をさらに深めるための手がかりになれば幸いである。

***

脚注

[1] 『Hum Apke Hain Koun…! (私はあなたの何?)』(1994・未)よりタイトルソング。参考映像:https://youtube.com/watch?v=7pst2C4zuuo

[2] 『バジュランギおじさんと、小さな迷子』(2015)主演俳優。

[3] 日本公開作では『デーヴダース』(2002)でシャー・ルク・カーン、アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャンとの共演で知られる。

[4] 『Hum Apke Hain Koun…! (私はあなたの何?)』(1994・未)よりDidi Tera Devar Deewana。参考映像: https://www.youtube.com/watch?v=tEKi6vnPApI

[5] 『百発百中 -Ghilli』より“Appadi Podu”。参考映像:https://www.youtube.com/watch?v=i1BqRYMFS08

[6] 『ボンベイ』より“Uyire Uyire”。 参考映像:https://www.youtube.com/watch?v=scEISjFAPFk

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