『私たちが光と想うすべて』を読む(1)——インドとインド映画をめぐる随想/拓徹

現代カシミールの社会史・政治史研究者・拓徹氏による連載記事「『私たちが光と想うすべて』を読む」の第1回目をお届けします。
インド映画タイムズ 2026.05.16
誰でも
販売元∶アルバトロス

販売元∶アルバトロス

※本稿の見解は著者のものであり、『インド映画タイムズ』を始めとする媒体や団体を代表するものではありません。

※本稿の内容は一部ネタバレを含みます。

※本稿のカタカナ表記は便宜上、基本的にヒンディー語読みを基準とします[1]。

※本稿の写真は、注記がない限り著者が撮影したものです。

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はじめに

 パーヤル・カパーリヤー監督の長篇劇映画『私たちが光と想うすべて』は、こまやかで美しい作品だ。その映像と音響の森は深く、さまざまな風景を湛えていて、観る者の記憶を乱反射する。複数の異なる読みをあらかじめ想定した作品であり、誰もがそこに、自分だけの小さな風景、小さな記憶を見つけることができる。

 日本での劇場公開にあわせ、『キネマ旬報』2025年8月号ではこの作品の小特集が組まれた。その目玉は文学畑の管啓次郎氏と野崎歓氏の対談[2]である。世界中を旅していながらインドへは「行ったことがない」という管氏に野崎氏が問いかけるかたちで、両氏がこの作品への愛を語る。「地水火風」の諸要素が、あるいは多くの動物たちが、いかに豊かにこの作品に登場するか。あるいは作中で読まれる詩、あるいは踊る人物、あるいは拭く行為について。両氏はじつにこまやかに、この作品の細部と全体を行き来しながら、作品の素晴らしさを読み解いて行く。そこには一般的に「誤読」と呼ばれるような解釈が混じっているかもしれないが、さまざまな読みを柔らかく包み込んで「誤読」という言葉を忘れさせるのがこの作品の美点だ。誤読があろうがなかろうが、この対談から、読者は多くの気付き、楽しみ、学びを得ることになる。

 他方、数あるレビュー記事の中でとくに目を引いたのが、珍しくこの作品に否定的な『週プレNEWS』高橋ヨシキ氏のレビューだった。記事の見出しは「「都会は冷たくて⼈間味に⽋ける」がまたもや繰り返される」、結論部分は次の一文。「ヒンドゥー教とイスラム教の宗教観の対⽴や、伝統的なインド社会の抱えるさまざまな問題をどこまでもふわっと「それなりに」投⼊しているところにもあざとさを感じてしまうが、それが作り⼿の意図どおりに機能したことは事実で、カンヌ映画祭ではグランプリを受賞した。[3]」

 なるほど、と思った。つまり高橋氏は、カパーリヤー監督がカンヌを含む欧米の映画祭での受賞を主目的として作品を製作し、そういった「意識高い系」映画祭で受けそうなかたちでインドの社会問題を作中で扱っているけれども、それはあくまでも欧米のシネフィル向けに作ったお行儀の良い「物語」でしかなく、インドの現実を反映していないのではないか、と疑っているのだ。

 筆者は、高橋氏のこの疑念は正当なものだと考える。なぜなら、実際にインドの現実を欧米の映画祭向けに糊塗して受けを狙うインド作品は多々存在すると思うからだ。欧米の大きな映画祭というのは、現在のグローバルな映画界における一大権力であり、この権力におもねって取り入ることができれば、一定の文化政治的・商業的成功が約束される。権力についてまともな感覚を持っている人なら、疑ってかかるのは当然だろう。意地の悪い言い方をすれば、わが国でも劇場公開の前後に各紙誌やウェブサイトに溢れたこの作品の賞賛記事の数々は、この作品が正当にインドの現実を反映しているかどうかを確かめることなしに、カンヌ映画祭という権威・権力の評価に盲目に従っただけだったことになる。

 『キネマ旬報』の対談に示されている通り、『私たちが光と想うすべて』は一般の日本人がとくに前知識なしに観ても、さまざまな魅力が感じられる作品である。他方、『週プレNEWS』のレビューは、私たち日本人にとってインドという国が依然遠い存在であり、その内実についてなかなか自信を持って判断が下せない事情を物語っているように思う。

(ラージャスターン州にて)

(ラージャスターン州にて)

 筆者はじつは、『私たちが光と想うすべて』という作品にあられもなく心酔している者である。人が何物かを目がないほど好む理由を、その人自身が分析して解明するのは難しいが、この作品に対する筆者の感情の背景には間違いなく、インドの地方都市で十余年を過ごした筆者の過去の経験がある。この経験に照らして筆者の目から見ると、明らかに欧米の映画祭向けにインドの現実を作り替え、権力におもねるインド映画というものが存在する一方、この『私たちが光と想うすべて』という作品は、涙が出るほど美しく、こまやかにインドの現実をすくい取っている。このエッセイ(連載予定)は基本的に、研究者としてインド社会にコミットし、その映画文化についても長年知識を蓄えてきた筆者の目から見た『私たちが光と想うすべて』の多様な魅力について述べるものである。

 だが、そういったインド経験に照らしたときの魅力だけがこの作品の真価だなどと言うつもりは全くないし、そんなことは言いたくもない。冒頭に記した通り、観る人ごとに異なる風景、その人だけの小さな光が見えて、そうした観客側の目に映る多様な景色を可能な限り柔らかく包み込もうとするのがこの作品の魅力だ。加えて、映画という美しい存在について記すとき、ネガティブなことは書きたくないし、その文章は権威や権力からできるだけ距離を置いたものでありたい。とにかく作品の魅力について、読者に想像力の翼をはばたかせてもらえる文章でありたい。

 「十余年の経験」というのがじつは曲者である。説明プロセスを経ない「インド滞在十余年の事実」は、表面的な「へえ~、すごいね」という感想をもたらしはするが、実際には空疎な、裏付けのない権威(のようなもの)としてしか機能しない。そして経験とは無意識に蓄積されるものであり、その内実をあらためて意識的に説明するのは非常に難しい。インドの諸事に関して日本人が言ったり書いたりすることについて、長年の経験から「それは違う」「そこは間違っている」と痛切に感じることは多いけれど、その理由をうまく言葉にするのは難しく、言葉にならない以上、喉から声は出て来ず沈黙せざるを得ない。

 ところが、『私たちが光と想うすべて』という作品には上記のように、観る者それぞれの互いに異なる見方を、いずれも柔らかく光で包んでくれるようなところがある。この作品について異論を述べても、必ずしも他者の見方の否定に繋がらないという、ありがたい前提がそこにありそうだ。尽きせぬ魅力を持つ作品であり、その魅力を探る試みにおいて話題が途切れる心配はない。そして、この作品を考察対象とすれば、自分の記憶を少しずつ辿りながら、この作品がなぜ、どのように「映画祭の権力におもねってインドの現実を糊塗する作品」とは異なるのかという問いにゆっくり答えることが、ひいては自分のインド経験の内実についてあらためて考え、これを言語化することが、可能になるのではないか。筆者にとってこれはまたとない機会であり、これを逃す手はない。

 そんなことを考えていたら、大変ありがたいことに、『インド映画タイムズ』からお声をかけていただいた。『私たちが光と想うすべて』の魅力を探り、筆者の自分探しを兼ねる記憶への旅に、しばしお付き合いいただければとても嬉しい。

第1回 『私たちが光と想うすべて』における言語の政治

 筆者が『私たちが光と想うすべて』(原題:All We Imagine as Light、2024)を初めて鑑賞したのは、日本劇場公開初日の2025年7月25日(金)、地元の名古屋・伏見ミリオン座でのこと。第一印象は「きわめて政治的な作品」というものだった。

 パーヤル・カパーリヤー監督の長篇第一作『何も知らない夜』(原題:A Night of Knowing Nothing、2021、ドキュメンタリー作品。筆者は2024年9月に「あいち国際女性映画祭2024」で鑑賞)は直接政治的な題材を扱った作品だったが、『光と想うすべて』のほうは、その存在自体がきわめて政治的だ。内容も語り口も、非常に戦闘的なのである。ただし、この作品の戦闘性はカンヌ映画祭ではおそらくあまり感知されず、その戦闘姿勢の矛先が向いているインド国内においてもほとんど反応はなかった。(『光と想うすべて』は、インド国内では2024年11月に劇場で一般公開された。都市部ではそれなりに観られていた印象だった[4]ものの、ヒットとは言えない興行成績だった。インドにおけるこの作品の興行収入は10クロール〔10千万〕ルピーほど[5]であり、これは近年のインドにおける映画年間興収上位百本に入らない数値である。)その意味ではこの作品は、カンヌ映画祭でグランプリを受賞し、世界中で公開され大きな賛辞を浴びたにもかかわらず、監督の当初の狙いに関しては空振りに終わったと言えるかもしれない。

 筆者が感じたこの作品の「戦闘性」の焦点は主に二つあり、一つが言語の扱い、もう一つが独居女性の扱いである(後者については後日、何回かに分けて書いてみたいと考えている)。今回は、この作品の最も特異な特徴であり、監督にとって最大の賭けだったと思われる、言語の扱いについて以下で考えてみたい。

図1 インドの主な言語圏を示す大ざっぱな地図[6](ウィキメディアの地図より筆者作成。URL:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Language_Map_of_India.jpg)

図1 インドの主な言語圏を示す大ざっぱな地図[6](ウィキメディアの地図より筆者作成。URL:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Language_Map_of_India.jpg)

『私たちが光と想うすべて』における言語設定

 最初に、『光と想うすべて』の物語の概要と、そこで使用される言語について整理しておこう。

 この作品の物語は、大都市ムンバイーのとある病院で働く二人の女性看護師、プラバーとアヌを軸に展開する。二人は共にインド南西端のケーララ州から長期出稼ぎのかたちでムンバイーに来ている身であり、ムンバイーでアパートの部屋を共同で借りるルームメイトの間柄である。寡黙で気丈なプラバーは中年の既婚女性だが、夫は結婚後すぐドイツへ出稼ぎに行ったきりであり近年は音沙汰がなく、勤務する病院では医師マノージ(彼もケーララ州出身)が彼女に想いを寄せている。病院で料理人として働く女性パールヴァティーはプラバーの長年の友人だが、パールヴァティーの夫が早逝し不在であるのを良いことに、大手開発業者がパールヴァティーに持ち家からの立ち退きを迫っており、プラバーは彼女を心配している。一方、陽気で気の良い20代のアヌには同じケーララ州出身の恋人シアーズがいるが、アヌはヒンドゥー教徒、シアーズはムスリム(イスラーム教徒)であるため、二人は関係を公にすることができない。作品後半、ムンバイーの持ち家を手放す決意をしたパールヴァティーの帰郷にプラバーとアヌが同行するが(パールヴァティーの故郷はムンバイーの南方、マハーラーシュトラ州西岸南部のラトナーギリー地方)、アヌは旅先で恋人シアーズとこっそり落ち合う計画を立てている。

プラバー(左)とアヌ(右)が、二人が共同で借りているアパートにて、海外から届いたらしき炊飯器を吟味する場面。(C)PETIT CHAOS - CHALK & CHEESE FILMS - BALDR FILM - LES FILMS FAUVES - ARTE FRANCE CINEMA - 2024

プラバー(左)とアヌ(右)が、二人が共同で借りているアパートにて、海外から届いたらしき炊飯器を吟味する場面。(C)PETIT CHAOS - CHALK & CHEESE FILMS - BALDR FILM - LES FILMS FAUVES - ARTE FRANCE CINEMA - 2024

 主な登場人物のうち、プラバー、アヌ、シアーズ、医師マノージはいずれもインド南西端のマラヤーラム語圏(ケーララ州)からムンバイーに出稼ぎに来ているという設定であり、彼ら同士で話すとき(およびSNSを送受信するとき)はマラヤーラム語を使う。なおカパーリヤー監督自身はムンバイー出身であり、ムンバイー地元の言語マラーティー語およびヒンディー語が自分の言語だが、マラヤーラム語は分からないため、マラヤーラム語の台詞については俳優たちの協力の下に作って行ったようだ(プラバー、アヌ、シアーズ、マノージを演じる俳優たちは全員マラヤーラム語が母語)。これに対して、もう一人の主な登場人物であるパールヴァティーはマラーティー語圏出身者という設定であり、演じる俳優本人もマラーティー語を母語とする。このため、作品後半の舞台となるラトナーギリー地方でパールヴァティーが地元の魚売りから買い物をする際に使う言語はマラーティー語である。ただし、パールヴァティーがプラバーやアヌと会話する際に使うのはヒンディー語だ。プラバーやアヌが勤め先の病院で使う言語もヒンディー語である。ヒンディー語はムンバイーを始めとする北インド諸都市で共通語として機能しており、都市に住む多くの出稼ぎ移民が意思疎通のために使う言語がヒンディー語である。結果的に、『光と想うすべて』で最も使用頻度が高いのはマラヤーラム語とヒンディー語の二言語となっている。

 『光と想うすべて』を初めて鑑賞した際、筆者はすでにカパーリヤー監督がマラーティー語~ヒンディー語を母語とするムンバイー出身者であることを知っていた。こうした言語条件にあるインド人(西インド出身者)が、マラヤーラム語などの南インド諸語を理解することはあまりない。だから、『光と想うすべて』の画面にアルファベット表記のマラヤーラム語のSNSの文字が躍ったときは、心底仰天した。この作品は、監督自身が理解しない言語を作品の主言語として据えた、マルチリンガル(複数言語)作品なのだ。言語面でこれほど思い切った実験をしているインド映画を、筆者は他に見たことがない。カンヌ映画祭でグランプリに輝き、公開前に目にした広告では文芸作品的な品の良さを漂わせていた『光と想うすべて』の中で、想像もしなかった破天荒な実験が繰り広げられているのを目の当たりにして、筆者の空いた口はしばらく塞がらなかった。ただし、この仰天の言語実験は、カパーリヤー監督一流のドキュメンタリーと作劇のあわいで揺れながらきらめく映像(および絶妙の音響・音楽)の洪水の中でなされているので、実際に鑑賞している最中はこの実験だけに驚く余裕などなく、ただ叩き壊されたガラスの破片が粉々になって脳内で溶けて行くような、不思議な感覚の中で感得されるのみだった。

(ジャンムー地域〔Jammu region〕僻地の山間部にて。人家が斜面に点在する)

(ジャンムー地域〔Jammu region〕僻地の山間部にて。人家が斜面に点在する)

都市中産階級のインド娯楽映画とその政治

 『光と想うすべて』の言語面の実験に触れて筆者が反射的に「政治的・戦闘的だ」と感じたのは、それが従来のインド映画のあり方と慣行に完全に背を向けているからである。

 インドは多言語多宗教の国家・社会であり、多くの異なる文化・宗教がそこで複雑に共存していることはよく知られている。インドには間違いなくそうした共存のための独特の知恵と感覚が存在しているのだが、その事実はインド各地(各言語圏)でその多言語性・多文化性が肯定的に捉えられていることを意味しない。アメリカのニューヨークのように、自らの多文化性をポジティブな魅力・財産と捉え、「マルチカルチュラリズム」(政策)に変換できているわけではないのだ。言い換えれば、インドの多文化共存主義=セキュラリズムは、市井の知恵・感覚としては根強く存在しているが、意識的な政策として成功したことはない。

 このことが端的に表れているのが、インドで圧倒的に広く共有される「文化」の代表としての映画のあり方である。日本でもすでに定着した感のある「ボリウッド」の語は、ボンベイ(現ムンバイー)を中心とするヒンディー語映画産業を指す語だが、インドにはこの他にも「トリウッド」(『RRR』『バーフバリ』などを産んだテルグ語映画産業)、「コリウッド」(タミル語映画産業)、「モリウッド」(『光と想うすべて』の俳優の多くが帰属するマラヤーラム語映画産業)、「サンダルウッド」(カンナダ語映画産業)があり、またハリウッドを模した「~ウッド」の愛称こそ付いていないものの、上のヒンディー語や南インド諸語(テルグ、タミル、マラヤーラム、カンナダ)のそれに負けない歴史と規模を誇るベンガル語やマラーティー語の映画産業も存在する。その他にもパンジャーブ語(パンジャービー)、グジャラート語(グジャラーティー)、アッサム語、近年存在感を増しているボージプリー語(ヒンディー語の東部方言)などが独自の映画産業を有し、枚挙にいとまがない[7]。そして、これらの多くの言語圏の映画産業が、各地でそれぞれに地元の自文化中心主義を展開しているのがインド映画の現状なのだ。産業として成立しているインド映画とはいわゆる娯楽映画のことであり、ヒットしなければ(=経済的に成功しなければ)産業として成立しないため、その内容はどうしても各地方で金と権力を持つマジョリティや有力コミュニティの都市・男性の視点によるものが中心になる。

(ジャンムーの町の郊外にて)

(ジャンムーの町の郊外にて)

 筆者が十余年を過ごしたのは北インドの地方都市ジャンムーだが、インドの地方都市はその周囲に広がる広大な農村地域と常に交信している。デリーやムンバイーのような大都市と比べれば、ジャンムーは見る影もない田舎町だが、それでも近郊の農村や山間部から初めてジャンムーにやって来る人々は、その町の賑わいを目にして漏れなく度肝を抜かれる。とくに町の映画館(大きめの建築物であることが多い)は彼らの目にまぶしく映るらしく、筆者はジャンムーの(どうということはない)映画館の建物の前で、故郷から抱えてきた大荷物を脇に置き、目を丸くして立ち尽くす「おのぼりさん」ご一行に何度も遭遇している(絵に描いたような牧歌的な光景なので、思わず笑ってしまう)。インドにおける大きな社会的ギャップはおそらく農村と地方都市の間に存在するのであり、地方都市に慣れたインド人がデリーやムンバイーなどの大都市に来て「目を丸くする」ことはあまりないように思う。そして農村や僻地の集落で(あるいは頑張って地方都市までやって来た農村の人と)話をすると、映画(娯楽映画)について否定的に捉えている人が非常に多いことが分かる。

 これはある意味当然のことで、彼らにとって映画とは、距離的に遠く離れた場所に存在する、きらびやかだが妖しく危険な、少なくとも自分とは縁のない「町の文化」なのである。娯楽映画の主人公は都市部の高カーストもしくは有力カーストの男性に設定されていることが多く、この意味でも農村の人々にとって「自分とは関係ない」。インドの娯楽映画は内容的にも、良く言えばファンタスティック、悪く言えば非現実的で荒唐無稽であることがほとんどなので、映画は農民の目にはいよいよ「見ても仕方ない」「くだらない」町の権力者たちの文化だということになる。

 日本ではインド映画について「娯楽映画/アート映画」という分け方をすることが多く、前者は大衆のもの、後者は富裕層のもの、という印象を持たれているようだが、インド娯楽映画の観客(および作り手)の圧倒的大多数は都市の中産階級であり、インドの本物の「大衆」「庶民」である農民(人数的にインド社会の過半数を占める)は映画とは基本的に縁がない。日本では、民主主義的な基準を尊重するなら、インド映画の評価において「インド大衆」の映画であるインド娯楽映画を無視するわけには行かないと考える論者を目にすることが多いが、これは大きな勘違いであり、インド娯楽映画とは基本的に充足した生活を送っているインド都市中産階級の文化である。言い換えれば、インドのアート映画と娯楽映画は、両方とも同じ限られた階層のインド人に帰属する。ついでに言えば、インドにおける映画批評を一手に担っているのも都市の中産階級であり、「娯楽映画/アート映画」という分け方は、農村・農民がほぼ意識の圏外にある彼らが考案した分け方である。都市中産階級(および彼らの意識にかろうじて引っかかっている都市労働者階級=彼らにとっての「大衆」)だけでインド社会が完結しているかのような彼らの意識と認識を、既存のインド人によるインド映画批評を通じて、日本を含む海外のインド映画批評が受け継いでしまっているのは残念である(これはインド映画に関心を持つ外国人が、インド大都市の外のインド社会にめったに足を踏み入れないことも関係している)[8]。ちなみにこの分け方の背景には、アート映画を観るべきなのについ娯楽映画のほうを観てしまうという、映画をめぐる彼ら中産階級自身のある種の罪悪感を含んだ複雑な感情が働いており、このため彼らには娯楽映画(と自分が見なす作品)を見下し、けなす傾向がある。彼らが口にし記すのは「娯楽映画は大衆のものである(自分たちのものではない)」という言説だが、実際に娯楽映画を一番観て楽しんでいるのは彼ら都市中産階級なのである。[9]

(タウィー川を挟んで広がるジャンムーの町。手前は筆者のジャンムーの友人の姪っ子)

(タウィー川を挟んで広がるジャンムーの町。手前は筆者のジャンムーの友人の姪っ子)

 ここまで述べれば、インドの各言語圏で権力を握る中産階級の人々が、各言語圏の中心的な都市で、自文化中心主義的な映画(娯楽映画)を製作している状況の内実が想像可能になるだろうか。

 例えばヒンディー語などの北インド映画では、南インドは一般的に遠い、ある意味視野に入らない世界として扱われてきたし、逆に南インド映画では、北インドの人や文化は鼻持ちならない滑稽なものとして揶揄されることが多い。政治的には、インドのマジョリティである「ヒンドゥー教徒」の「ヒンディー語ナショナリズム」(Hindi nationalism、当然ながら北インド中心主義と重なる)は、排他的なヒンドゥー・ナショナリズム(ヒンドゥー至上主義)と重なりその一部をなす、今日のインドの大問題の一つである。また、南インドのタミル語映画界とタミル政治が密接に繋がっている例は有名であり、インドでは地域・言語を問わず映画界(娯楽映画界)が政界に直結している。インドにおいて文化そのものを体現している感のある映画は、その絶大な影響力のため、大きな政治力を持ってしまうのである。こうした諸現象はいずれもインド都市中産階級の政治と権力のあり方を体現しており、そこに他者や異文化を尊重する視点はほとんどない。

 インド各地域の中心都市の中産階級が楽しみ、満足することを至上命題としているため、娯楽映画で各言語圏内のマイナーな方言や周縁文化に光が当たることはまずなく、作品の言語は標準化された各地域言語によってきれいに統一され、言語的な複数性はほとんど見られない。多少のリアリティを出すために方言的な言葉が登場する場合でも、ナレーションの中心はあくまでも標準地域言語である。インド映画における言語のこの単一性の背景には、権力のあり方とは無関係な、インド映画独自の性格も作用している。インド人は概して論理的であり、映画においては物語を重視する。ストーリーを論理的かつ力強く語るためには、語る言葉にブレがないほうが良いに決まっている。

 なお筆者はインドの娯楽映画一般を否定するものではない。「インドの娯楽映画」と一口に言っても、それが無限と言って良いほどの歴史と多様性をその内部に抱えていることは、『インド映画タイムズ』の読者には言わずもがなだろう。インド娯楽映画がインド都市中産階級の文化だと書いたが、そもそも世の中の映画という映画は国や地域の別を問わず、都市中産階級によって製作されてきたと言える[10]。映画の作り手(たち)の誰もが自らの社会的ポジションの制約の中で作品を製作しているのであり、その中から歴史に残るあまたの名作が生み出されてきた。インド娯楽映画と呼ばれるジャンルの作品の中にも、思わず「完璧」という言葉が口からこぼれるような傑作は多々存在するし、筆者もまた、それらの作品の多くをこよなく愛してきた。

 だが、インド映画が上で述べたような社会的条件と制約を持つのは事実であり、筆者がずっとこれを歯がゆく感じてきたのも事実である。筆者はカシミール紛争という、インド社会全体から見れば周縁部のマイノリティに関わる問題を、自分も紛争地ジャンムー・カシミールの地方都市に長年身を置いて観察してきた者なので、どうしてもインド映画が持つそうした条件と制約に敏感になってしまう。だからこそ筆者は、『光と想うすべて』が思いもかけないかたちでインド映画のこうした条件と制約を正面突破しようと試みているのを目の当たりにして、胸のすくような思いを味わったのだと思う。

『私たちが光と想うすべて』における言語の扱いと、第二言語としてのヒンディー語

 説明が長くなったが、要するに『光と想うすべて』の言語実験は、映画をめぐるこうしたインドの既存の文化・政治・権力に真っ向から挑み、疑問符を突きつけているのである。インド大都市の娯楽映画とその言語的単一性がインド各地の中産階級のマジョリティ主義的な政治・権力を体現しているとすれば、『光と想うすべて』は、ムンバイーという大都市に集い、その住民の大きな割合を占めているにもかかわらず政治・権力から顧みられることがほとんどない、インド各地からやって来た出稼ぎ移民たちの言語的複数性でこれに挑む。

 作品のそうした性格を宣言しているのが、『光と想うすべて』の導入部[11]である。ドキュメンタリーの手法で撮影されたムンバイー夕刻の風景に、出稼ぎ移民たちが各々の出身地の言語でムンバイーについての自分の意見を述べる声が被さる。移民の声は、言語別に言えば(登場順に)グジャラート語、ボージプリー語、ベンガル語、マラーティー語、マラヤーラム語、再びグジャラート語と続き[12]、ここでようやくカニー・クシュルティ演ずる主人公プラバーが画面に登場し、続いてパーヤル・カパーリヤー監督の名前がクレジットされる。日本語字幕だけ追っていると分かりにくいが、この導入部はインドの多様な言語による談話を通じて、「この作品はムンバイーという都市を、ふだんは顧みられない出稼ぎ移民たちの複数性の視点から捉える」ことを宣言する内容になっている。

 そして、言語に関するこの作品の戦略が端的に表れていると筆者が感じるのが、第二言語としてのヒンディー語の扱いだ。この第二言語の問題は、複数性とはまた少し異なるかたちで、インドにおける文化的単一性・自己同一性に疑問符を投げかける。

 この作品にヒンディー語が登場人物にとっての第二言語として登場することが最も直接的に感じられる場面は、同じマラヤーラム語圏出身ながらムンバイーの共通語としてのヒンディー語になかなか馴染めない医師マノージに、病院での仕事を終えて帰宅の道すがら、プラバーが優しくヒンディー語の簡単なフレーズを教える場面[13]である。このときの二人の会話の地の言語はマラヤーラム語である。

プラバー(左)と医師マノージ(右)、ヒンディー語を教える場面より少し後の会話場面。(C)PETIT CHAOS - CHALK & CHEESE FILMS - BALDR FILM - LES FILMS FAUVES - ARTE FRANCE CINEMA - 2024

プラバー(左)と医師マノージ(右)、ヒンディー語を教える場面より少し後の会話場面。(C)PETIT CHAOS - CHALK & CHEESE FILMS - BALDR FILM - LES FILMS FAUVES - ARTE FRANCE CINEMA - 2024

 だが、第二言語としてのヒンディー語がこの作品で最も重要な役割を果たすのは、プラバーとパールヴァティーの会話においてである。プラバーはマラヤーラム語圏出身、パールヴァティーはマラーティー語圏出身なので、二人は自分の出身地の言語で会話することはできない。このため二人の会話はおのずから、共通語=第二言語としてのヒンディー語でなされることになる。生活に必要な範囲内で、必要性に応じて日々の暮らしの中で習得されるのが共通語としての第二言語というものであり、二人が話す第二言語としてのヒンディー語は語彙も少なく至って簡素だ。しかしこのことは、第二言語としてのヒンディー語による二人の会話の価値を減じるものではない。プラバーとパールヴァティーは付き合いの長い親友同士であり、その強くかけがえのない絆を形作ってきたのは、第二言語としてのヒンディー語によるコミュニケーションなのである。

 この作品が「シスターフッド」(女性同士の連帯)を主なテーマとしていることは、映画祭や各紙誌で盛んに言及され、よく知られている。シスターフッドの描写が素晴らしいからこそ、この作品は高く評価されてきたと言える。そして、この作品におけるシスターフッドの一つの核をなすのがプラバーとパールヴァティーの友情であり、この二人の重要な関係がいわゆる母語によってではなく、都市の共通語としての第二言語によって成立している点に大きな意味がある。

 図1の地図はインドの大まかな言語圏、つまり母語=第一言語の分布を示すものであり、そこに第二言語の事情は反映されていない。上述のようにインドでは各言語圏において、その地域の権力者である中産階級が、自らの母語=第一言語を中心としたアイデンティティ政治を繰り広げている。しかし経済的な弱者である出稼ぎ移民は、移住先の大都市で日々の暮らしを営んで行くうえで、自分の母語を使える局面は限られており、第二言語としての共通語に頼らざるを得ない。いったん言語的・文化的な自己同一性=アイデンティティをカッコに入れ、忘れなければ生活が成り立たないのである。自己同一性という基準・枠組自体が機能しない人生がそこにある。出稼ぎ移民の生活実態とは、インド中産階級のアイデンティティ政治にとってのアンチテーゼなのだ。ふだん政治や権力によって忘れられているこうしたアンチテーゼたちは、しかしインドの社会・経済を底で支える存在である。いわゆる文化的な自己同一性を保つことが難しい移民労働者たちの生は、それでも心の絆において人後に落ちるものではない。第二言語としてのややぎこちないヒンディー語によって綴られて行くプラバーとパールヴァティーの友情が、いかに豊かで強靭であることか。それを示すことによって、この作品は、図1のような言語アイデンティティの分類法や、中産階級の文化的プライドを形作るアイデンティティ観に対して、ちょっと待って、インドの人と社会を本当に支えているのは一体誰なの、それは本当はどんな姿をしているの、と問いかけているのである。

(ディーワーリー祭前の買い物客で賑わうジャンムーの町)

(ディーワーリー祭前の買い物客で賑わうジャンムーの町)

 ここで再び筆者の個人的な思い出に言及することをお許しいただきたい。大都市ムンバイーの眩い摩天楼の蔭で、第二言語としてのヒンディー語によって人知れず育まれるプラバーとパールヴァティーの友情は、筆者にとって特別な意味を持つ。なぜなら筆者も、自分の人生の十余年を第二言語としてのヒンディー語によって生きた人間だからだ。[14]

 インド人は根っからの話好きであり、インドにおける生活はコミュニケーションの連続である。地方都市ジャンムーの雑踏に紛れ込んで長年暮らす間に、筆者はこの町のじつに多様な人々と、片言のヒンディー語で膨大な時間にわたる会話をしたと思う。会話相手の大多数はヒンディー語以外の母語を持つ人々であり、相手にとってもヒンディー語は第二言語だった。しかし考えてみれば、この状況は北インドの町の常態である。図1で分かるようにヒンディー語圏は広大なのだが、その内部に非常に多くの方言が存在し、いわゆる標準的なヒンディー語を母語とする人は意外と少ない。英語と共にインドの公用語の一つであるヒンディー語は、圧倒的に第二言語として存在しているのが実態であり、とくに北インド都市部の生活は、第二言語としてのヒンディー語によって営まれていると言って過言ではない。広義のパンジャーブ語圏に属するジャンムーや、マラーティー語圏に属するムンバイーはその典型だ[15]。筆者の長年の生活実感からも、大半の北インド都市部の人々にとってのヒンディー語が、そこに彼らの言語的・文化的ルーツがあるわけではないけれど、これこそが彼らの日々の生活を形作っている言語であるという事情はよく分かった。そして筆者は、自分にとっても第二言語であるヒンディー語を通じて、そんなインド人たちと友情を結び、ときには恋に落ち、ときにはケンカもして日々を積み重ねた。

 今考えてみると、筆者がそんなふうにインド地方都市ジャンムーの社会に溶け込むことができたのは、おそらく第二言語としてのヒンディー語の性格のおかげである。華やかさや派手さに欠け、しばしば退屈さや停滞感さえ漂わせる、きわめて慎ましい佇まいのこの共通語は、筆者にとってもジャンムーの多様な人々にとっても母語ではなく、誰もがこの言語から多かれ少なかれ距離を持っているという意味で、この言語の前では誰もが平等だった。そして、誰のアイデンティティも形作らないこの第二言語が社会の事実上のメインストリームを形作っていたからこそ、この社会は外国人である筆者をも自らの内に自然に受け入れることができたのである。第二言語としてのヒンディー語は、自己同一性に基づくアイデンティティ政治やナショナリズムとは全く別のかたちで、その開放性・公共性によってインド社会を束ね、人々の生活を支えているのだ。

 が、こうしたインドの実際の生活を形作る第二言語としてのヒンディー語が、それとして認識されることは非常に少ない。ヒンディー語の映画やテレビ番組に登場するオフィシャルな標準ヒンディー語は、あくまでも(北)インド社会のマジョリティであるヒンドゥー教徒の文化的アイデンティティと自己同一性を支える言語であり(少なくとも体面上そうであるふりをしており)、ヒンドゥー至上主義政党BJPのインド現政権が推し進めたがっているヒンディー語ナショナリズムの言語である。標準化されたヒンディー語(より正確に言えば、標準化されたいくつかの代表的な方言を含む)でストーリーを力強く語るヒンディー語娯楽映画が、第二言語としてのヒンディー語の姿を描くのは論理矛盾に等しく、ほぼ不可能である。ヒンディー語が第二言語として広範に使われているからこそ、ヒンディー語映画は広大なエリアで観客を持つことができているのだが、逆にヒンディー語映画の観客の大多数にとってヒンディー語が第二言語でしかないという事情は、めったに顧みられることがない。

 だからこそ筆者は、『光と想うすべて』のプラバーとパールヴァティーの会話において、簡素で不完全な第二言語としてのヒンディー語が、彼女らのささやかだが何より大切な友情を見事に紡ぎ出すのを見て(聴いて)、ああ、インドの本物の生活、本物の感覚を映し出す映画が、初めてここに現れたのだ、と、言葉にならないほど感激したのである。それはかつて経験したことのない、想像もしてみなかった映画上の表現であり、感覚だった。

 考えてみれば、この作品に登場する言語のうち、パーヤル・カパーリヤー監督自身が理解する言語は主にヒンディー語とマラーティー語の二つであり、登場頻度から考えて、自分が表現したいものを監督が言葉そのものに込め得たのは、プラバーとパールヴァティーのヒンディー語による会話部分だったはずである。監督自身にとってのヒンディー語は第二言語というより第一言語なので、監督が自分自身にとってのヒンディー語に対する感情・感覚をそこに込めたというわけではなく、監督はおそらくその透徹した観察眼によって、第二言語としてのヒンディー語にこそインドとムンバイーのリアルがあると看破し、より広い視野から捉えたこのリアリティを、自分がよく知るヒンディー語をあえて第二言語として作中に登場させるという実験的な試みの中に封じ込めたのである。作品の半分を自分が知らない言語(マラヤーラム語)の台詞で埋めるという選択ともども、そこにはカパーリヤー監督のきわめて大胆な構想力と、それを実行に移す超人的なコントロール能力が働いている。

 ともあれ、監督が第二言語としてのヒンディー語に大きなリアリティを見出していたのは間違いない。だから筆者の大きな感激はあながち的外れではなく、いわば監督の狙い通りだったのだろうと思う。

カパーリヤー監督の孤独

 さて、『光と想うすべて』における言語の扱いの全体像を捉えるためには、もう少し考察を進める必要がある。

 すでにお気づきの読者も多いと思うが、複数のインド地域言語を使用するという『光と想うすべて』の言語設定は、必然的に英語字幕を介した作品鑑賞を観客に要請する。(日本の観客は日本語字幕を介して鑑賞するわけだが、ここでは欧米映画祭の観客のみならず、とくにインド国内のインド人観客の大多数が英語字幕を介してこの作品を鑑賞したことから、英語字幕版を基盤に話を進める。)例えば、作品冒頭の導入部では、ムンバイーで暮らすことについてドキュメンタリー・タッチの談話がインド諸言語で述べられるわけだが、これらの諸言語(グジャラート語、ボージプリー語、ベンガル語、マラーティー語、マラヤーラム語)をすべて理解する人は、インド人の中にもほとんどいない。(ただしこの導入部に関しては、談話の音声が映像同様、ムンバイーの雑多な群衆のドキュメンタリーとして機能しているので、映像の中の群衆個々人の顔や姿を観客が認識する必要がないのと同様、観客がいくつかの言語の談話が聴き取れなかったり分からなかったりしても問題ないかたちになっている。)この作品の主要登場人物が使うマラヤーラム語とヒンディー語を両方理解する人は、マラヤーラム語圏を中心に一定数存在するはずだが、この作品はそうしたマラヤーラム語圏の観客をターゲットにしているわけではない。この作品は最初から、英語字幕付きで鑑賞されることを前提としているのである。このことが含意するのは、いったい何だろうか。

 インドにおける英語の位置は複雑である。単純に考えれば、インドにおける英語とは大英帝国の言語であり、イギリスによる植民地支配の負の遺産である。しかし今日までに英語はグローバルな共通言語と化しており、植民地支配の過去のせいでたまたま英語教育の伝統を保ち続けたインド中産階級は今日、英語に堪能であるという条件を最大限に生かしてグローバルに活躍している。彼らにとって「インド英語」はもはや負の遺産などではなく、むしろインド人独自のプライドの源泉であり、インド英語による文学作品も今日では世界中で高く評価されている。

 こうした、いわばインドの外から見たインド英語事情の他に、インドにおける英語は、放っておくとバラバラになりかねないインド国内の多くの言語圏を結び付け束ねるという重要な役割も担っている。すでに述べたように、北インドでは第二言語としてのヒンディー語が共通語としてかなり普及しているわけだが、共通語としてのヒンディー語を南インドにも押し付けようとする政策は、ヒンドゥー至上主義の一環である非民主的な「ヒンディー語ナショナリズム」として、とくに南インドで猛烈な反発を呼んでおり、とうてい実現可能であるとは思えない[16]。互いに大きく異なるインドの諸言語圏を結び付け得るのは、事実上いずれの言語圏からも中立的な英語しかないのであり、このため英語は今でもインドの二つの公用語のうちの一つであり続けている[17]。

 しかし当然ながら、農民を始めとするインド「庶民」の大多数は英語を理解しない。基本的に英語で教育を受けているインド都市部の中産階級であっても、英語字幕を含め字幕付きの映画鑑賞には慣れていない。インドでは中産階級の中のほんの一握りの文化的エリートだけが、異文化理解のためにかろうじて英語字幕付きの外国映画鑑賞を行っている状況だが(その鑑賞の場も一般の映画館であることは稀で、主に各種文化機関の上映会である)、従来は何も考えず楽しむためのものだったインド国産映画まで字幕付きで鑑賞しなければいけない事態というのは、そうした文化的エリートの多くにとっても許容し難いだろうことが想像される。

 こうした厳しい条件のわりには、『光と想うすべて』はインド都市部で興行的に健闘したと筆者は思う。その背景には、やはりカンヌ映画祭の権威と権力が働いていたはずだ。インド映画がカンヌでグランプリを獲ったんだって、じゃ観に行ってみようか、ということで、多くのインド中産階級が映画館に足を運んだのである。

パーヤル・カパーリヤー監督、カンヌ映画祭会場にて(2024年5月)
出典:Wikimedia Commons URL:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Payal_Kapadia_at_2024_Cannes_Film_Festival.jpg

パーヤル・カパーリヤー監督、カンヌ映画祭会場にて(2024年5月) 出典:Wikimedia Commons URL:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Payal_Kapadia_at_2024_Cannes_Film_Festival.jpg

 それでは、『光と想うすべて』はインドのきわめて少数の文化的「超」エリート、エリートの中のエリートのために作られた作品なのだろうか。あるいは、冒頭で見た『週プレNEWS』の高橋氏が疑ったように、この作品は最初から欧米の映画祭をターゲットとして製作されたのだろうか。

 本稿で多くの紙面を割いて述べてきたように、この作品の言語面の実験が目指しているのは、インドにおける言語の複数性や第二言語の性格を通じて、これまで誰も描かなかったインドの現実に肉迫することである。この作品がこれまでにないかたちでインドの現実に迫ろうと試みているのは言語面に限ったことではないため、他の諸側面についてもこの連載において順次述べて行きたい。いずれにせよ、この作品の原動力になっているのはインドの本物の現実と、そこにある人生の真実を描きたいという情熱である。そう言い切れる理由を述べるのが、今回を含めたこの連載の目的でもある。この作品が試みた言語実験の詳細に理解が及ばなくても、この作品がインドの片隅で営まれる無名の人生の姿を誠実に描こうとしていることは、日本を含め世界中の多くの観客に伝わる。だからこその国際映画祭での受賞だったはずだと思う。

 『光と想うすべて』のこうした姿から自然に連想されるのが、サタジット・レイ(1921~92)の映画だ。これについては後の回で詳しく触れたいが、レイの作品もインド国内外で、欧米での高評価を狙ったものではないかとずっと疑われてきた。だがレイの作品をきちんと吟味すれば分かるように、同時代のインドの左翼的な社会派映画作品のほとんどが「上から目線で」インド社会を捉えていたのに比べ、主に農村を舞台としたレイの有名なオプー三部作(とくにデビュー作『大地の歌』)では、登場人物たち自身の目線で、より普遍的なインドの人生が描かれていた。それは上から目線でもなく、下から目線というわけでもなく、いわゆるインド農村というものをより正確に描こうとしているわけでもなかった。ただインドにおけるシンプルで複雑な人間像が、喩えようもなく美しく彫琢され、映画のスクリーン上で実現されていたのである。発表された当時、これらの作品がイタリア映画のネオリアリズモなど当時の欧米の最新の映画語法を採り入れていたため、インド内外でこれらの作品の非インド性が叫ばれたが、レイの表現が目指していたのは飾り気のない、インドの無名の人生のささやかな普遍性だった。全く同じことを、筆者は『光と想うすべて』に感じる。

 サタジット・レイは孤独な映画作家だった。レイが活躍したベンガル語映画は他にもリトウィク・ガタクムリナール・セーンといった偉大な映画作家を生んでいるが、レイの諸作品は他とは一線を画す一つの独自のジャンルとして、それだけで孤高の世界を形成している感があった。その背景には、ベンガル地方の文化的エリートの家系に生まれ、インド人としては例外的に同時代の欧米文化にも親しみ、同時にベンガル文化の粋とも言うべきシャンティニケタン(タゴールが創設した学校)で学ぶという、グローバルとローカルの両面における比類のない文化的習熟があった。次回で述べるように、パーヤル・カパーリヤーの作品が抱える孤独も、同様の生い立ちと文化的習熟を背景としている。サタジット・レイもパーヤル・カパーリヤーも、エリートの中のエリートだと言ってしまえばその通りである。ただ、彼らの映画表現は「アート映画」として「娯楽映画」に対立しているわけではなく、インド中産階級や富裕層の文化に帰せられるわけでもない。それは、本物の文化的習熟だけが持つ普遍性と孤独において屹立していると思う。

 ここでサタジット・レイの例を引き合いに出したのは、深い類似性を示すレイと対比させることによって、『光と想うすべて』の言語面の特異性を指摘したかったためでもある。サタジット・レイの映画作品は言語的には(一部のヒンディー語作品などを除き)すべてベンガル語で製作されている。インド内外の評者から「欧米向けではないか」といくら誹られようと、レイ作品の普遍性はベンガル語圏の観客には自明であり、原則的にはベンガル語圏で階層の別を問わず受け入れられ得た。こうした「地元」を、カパーリヤー作品は(前作『何も知らない夜』を含め)持たない。この点で、カパーリヤーはレイと大きく異なるのである。

SNSと新世代の言語感覚

 複数のインド地域言語を理解するのはインド人にとっても難しい。一般にインド人は字幕による映画鑑賞に慣れていない。——こう書くと、いかにも『光と想うすべて』の言語設定が八方塞がりであり、インド国内ではまず理解されないかのように聞こえる。だが、本当にそうだろうか。

 マラヤーラム語をアルファベットで記したSNSの文字が『光と想うすべて』のスクリーン上に躍ったとき、筆者の目には、監督がこれ(画面上に文字を書き込むこと)を楽しんでいるように見えた。またこのとき(作品冒頭、病院に勤務中のアヌが恋人シアーズとSNSを交換する場面[18]で)、マラヤーラム語SNSの英語字幕には、“IMA bored”(=I am going to get bored)、“wanna C U”(=I want to see you)といったSNS用の省略形テキストが並んだ[19]。欧米映画祭における観客だけでなくインド国内の大多数のインド人観客も、『光と想うすべて』を英語字幕込みで鑑賞したわけだが、こうした英語SNSの省略形テキストは、インド人にとっても馴染み深いものである[20]。アヌとシアーズのSNSの次にスクリーンに映し出されるのは、“VOICE MESSAGE/from Anu to Shiaz”というスマホの機能的な表示の文字であり(この英語の表示は日本語版でもそのまま画面に映し出される[21])、マラヤーラム語によるアヌの録音メッセージの音声がこれに続く。主にテクノロジーの変化に起因するこうした目新しい情景は、言語をめぐるインドの環境が以前とは大きく異なっていることを感じさせる。

(デリーComicCon 2024会場にて。アヌが受付をする病院窓口の水槽の中にも、腕だけ動くルフィ人形があった。こうしたアニメキャラは今日、グローバルな共通言語と化している)

(デリーComicCon 2024会場にて。アヌが受付をする病院窓口の水槽の中にも、腕だけ動くルフィ人形があった。こうしたアニメキャラは今日、グローバルな共通言語と化している)

 ここで、作品の舞台となっている大都市ムンバイーの現在の状況(人口とその性格)について概要をチェックしておこう。カパーリヤー監督がインタビューでしばしば言及しているように、『光と想うすべて』という作品は大都市ムンバイーの肖像画としての側面を持つ。

 娯楽の主流が映画やラジオであり、本や新聞・雑誌など「書かれた文字」を読む機会と人口比率が相対的に非常に少なかったインドだが、携帯電話とSNS、そしてスマホの普及により、近年はデジタル画面を通じて「文字を読み書きする」機会と人口が急速に増えている。むろんこの間に識字率も向上しており、インド全体で1991年に52.2%だった識字率は2011年には73%まで上昇している[22]。現在のインド都市部の10代~20代の若者層に限れば、識字率はおそらく9割を超えるだろう[23]。

 インド全人口における都市人口の比率は、1951年が約17%、2011年が約31%であり、漸増しているが大きく増えているわけではない。これに対し、都市人口における大都市人口の比率は激増しており、10万人以上の規模の都市に住む人口は、1901年には都市人口の4分の1だったが、2011年には都市人口の7割を占めるまでになった[24]。この2011年の「7割」は百万以上の人口を擁する52の大都市を含んでおり、うち最大のグレーター・ムンバイー都市圏の人口は約千八百万だった。ムンバイーには2011年の時点で、日本の全人口の1.5割ほどの人数が住んでいたのである(その後も増え続けていると思われる)。

 インドで都市人口比率がそれほど増えていないわりに、都市人口における大都市人口比率が増えているというこの傾向は、インドの国内移民がじつはそれほど農村・都市間で動いておらず(農村・都市間移民の割合は1991年から2011年までの3回の国勢調査でいずれも国内全移民の2割弱)、2011年には都市間移民が農村・都市間移民とほぼ同じ比率(2割弱)で存在したというデータと呼応している(残りは農村間移民)。大都市への移民は必ずしも貧しい農村からやって来るわけではなく、短期移民は貧農を含む貧困層出身である場合が多いが、移住期間が長期になるほど移民は中産階級を多く含む[25]。プラバーやアヌのような医療従事者、あるいはマノージのような医師は、そうした経済的に富裕とは言えない中産階級移民の例であり、この意味でも、『光と想うすべて』はインド大都市における移民の性格を代表する事例を扱っていることになる。

ムンバイーとインド南端カンニヤークマーリーを繋ぐ列車「カンニヤークマーリー急行」の表示板。記された文字は、上からタミル語、マラヤーラム語、ヒンディー語、英語。出典:Wikimedia CommonsURL:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:16381_Mumbai_CST_Kanyakumari_Express_-_Train_Board_1.jpg

ムンバイーとインド南端カンニヤークマーリーを繋ぐ列車「カンニヤークマーリー急行」の表示板。記された文字は、上からタミル語、マラヤーラム語、ヒンディー語、英語。出典:Wikimedia CommonsURL:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:16381_Mumbai_CST_Kanyakumari_Express_-_Train_Board_1.jpg

 とてつもない人口を擁する大都市ムンバイーで、年々増えて行く近隣諸地域出身の中産階級の移住者たち。より低い階級の移住者たちを含め、様々に異なる言語・文化的背景を持つ彼らは、絶えずスマホで文字のやり取りを行う。この都市空間では、かつてない規模で多様な言語や文字が交錯し、共存している。自分が理解しない言語や文字が身の周りにけたたましく存在するのが、おそらくこの都市の常態だ。そうしたノイズがなければ、我が街ムンバイーとは感じられないほど、なのではないだろうか。

 『光と想うすべて』における言語の扱いには、本稿で詳述したような言語文化をめぐる挑戦と新たな表現への試みが含まれているが、そこには同時に、異なる言語をコラージュして楽しむ感覚も含まれているように思う。この作品のタイトルクレジットは、監督自身がおそらく読むことができないマラヤーラム語の文字でまず記され、二行目がアルファベットの英語で記されている[26]。そこには間違いなく、自分が読めない文字の美しさ、面白さを楽しむ感覚が働いている。

 カパーリヤー監督にとっての「地元」とはおそらく、クロスカルチュラルな場としての現代インドの都市空間なのだ。この多文化的な空間をまるごと自らのものと認識する習慣はインドにまだ根付いていないが、『私たちが光と想うすべて』という作品は多くのインド人観客に、その萌芽のきっかけを与えたのではないかと思う。この作品の本当の支持者たちはきっと未来のインドにいて、この作品はそこへ向けて開かれている。(終)

***

[1] 『私たちが光と想うすべて』という作品が複数の言語を扱い、いずれの言語をも尊重する姿勢を持っていることを考えると、一つの言語のみをカタカナ表記の基準とするのは作品の意図に反するようだが、日本語の表記には(英語と異なり)短母音と長母音の区別があり、インド諸語のいずれかを基準にしてカタカナ表記する必要があるため、一言語による表記の統一は仕方ないと考える。あえて言えば、本文で詳述するように、この作品の言語的重点は「第二言語としてのヒンディー語」にある可能性が高いので、この選択をした面もある。また本稿は論文ではないため、カッコや注などで他の言語における読み方・表記を併記することは(煩雑さを避けるため、必要な場合を除き)行っていない。著者は政治的には各言語地域の自律性を重んじる立場だが、本稿は著者の体験の記述に重きを置く内容であり、南インド出身者が南インドの自らの言語で体験記を書くのが自然であるのと同様、ヒンディー語によってインドで生活した著者にとって、半ば体験記である本稿で地名・人名などをヒンディー語読みで記すのは自然なことだと考える。このことは、文中で触れる「ヒンディー語至上主義」に著者が賛同することを意味するものではない。ともあれ、本稿著者の見解が良くも悪くも北インドにおける自分の体験に基づきがちである点については、読者の側でも留意していただければ幸いである。

[2] 管啓次郎×野崎歓「対談 希望への光を見いだす「現代の神話」」、『キネマ旬報』No.1967(2025年8月号)、46-51.

[3] 「⽇本有数の映画ガイド・⾼橋ヨシキが『私たちが光と想うすべて』をレビュー︕」、『週プレNEWS』2025年7月19日。URL:https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/20250719-127678/[2026年4月2日最終閲覧]

[4] この作品のインド公開中にデリーを訪れた際の筆者の印象。なお筆者は、この作品に関しては日本公開時に鑑賞すると決めていたため、デリーでは鑑賞しなかった。

[5] インターネットの情報源(https://www.boxofficemojo.com/title/tt32086077/)に出ているインド国内興行収入をルピーに換算した数値。なお、インドにおけるこの作品の検閲指定は、一定の性的場面を含むため「A (Adults Only)」(成人向け)となっている。

[6] いくつかの言語に関しては、この地図の表記と本文の表記の間にズレがある。例えば地図に「パンジャービー語」と記されたインド北西部の言語について、本文では「パンジャーブ語」と表記している。この言語に関しては、市販テキストなどで「パンジャービー語」とされていることが多い反面、筆者個人としては「パンジャーブ語」のほうがしっくりくる感覚を持っているが、いずれにせよ日本語のカタカナ表記に揺れがあることを物語っている。原理的には、「パンジャーブ」は地域名であり、「パンジャービー」は「パンジャーブの言語」を表す言語名である。「~語」を付けずに言語名を示す場合は「パンジャービー」と記す必要があるが、「~語」を付けるのであれば、まあどちらでも良いかな、ということになる。(穿って考えれば、「パンジャービー語」は「パンジャーブ語の語」と「語」の意味を2回繰り返していることになるので、論理的にやや座りが悪い。)問題は、この表記の揺れに関して、すべての(北インドの)言語名がこうした「地域名/言語名」の論理で割り切れるわけではないことである。その代表が「ヒンディー語」だ。「ヒンディー」という言語名に対応する地域名は存在しない。対応するのは「ヒンドゥー」という宗教名・宗教コミュニティ名である。(あえて対応する地域名を想定するなら、しばしば「インド」と同義で使われる「ヒンドゥスターン」になる。)これは、ヒンディー語という言語(言語の定義・区分・名称)が、19世紀末~20世紀初頭にあえて「(ムスリムの)ウルドゥー語」から区別されるかたちで新たに成立したものである事情と関係している(複雑な問題なので、ここではこれ以上詳述しない)。似たような位置にあるのが「マラーティー語」で、「マラーティー」という言語名に対応するのは「マラーター」という、ある種の王国名・民族名である。インド言語名のカタカナ表記の揺れに関してはこのような特殊事例の問題も絡んでおり複雑だが、本稿ではあえて表記を「揺らし」ておき、揺れの問題が存在することを読者にもそれとなく意識してもらう選択肢を取った。(なお南インド諸言語の言語名に関しては上記とはまた異なる事情が存在するものと思うが、南インド事情に疎い筆者はこれを論じることができない。)

[7] インド映画のこうした言語ごとの状況の詳細については、高倉嘉男「地域」(「インド映画キーワード辞典」項目)、夏目深雪(編)『新たなるインド映画の世界』PICK UP PRESS、2021、114-117を参照。なお一口に「各地方言語の娯楽映画」と言っても、言語ごとの特色があるのも事実であり、例えばマラヤーラム語映画は娯楽色が薄く文芸的な作品が多いことで知られるなど、その娯楽性にはグラデーションがある。

[8] なお、ここで筆者が述べたインドにおける映画と農村の間の距離、言い換えれば「映画が真の農村を語らない」「農民が自らを語る映画言語を持たない」事情は、1980年代以来歴史研究の分野で議論されてきた「サバルタンは語ることができるか」(G・スピヴァクの同名著書〔論文〕タイトル)という問題と重なる。その後のサバルタン・スタディーズが試みたように、様々なジェンダーやマイノリティの視点から「サバルタンによる語り」の抽出を模索することは不可能ではない。だが現実には、サバルタン的主体が自ら語る位置に近づけば近づくほど、彼らがサバルタンとしての自律性を失うという事情もあるように思う。いずれにせよ、現在のインドでは未だ都市と農村の乖離が激しく、農村から、農村自身のための映画の作り手が現れることは、理論的に不可能ではないが、現状では限りなく難しいことであるように思われる。

[9] 「娯楽映画/アート映画」の分類法は、もう一つの側面として「ポピュラーカルチャー/ハイカルチャー」の区分という意味合いも持っている。話が複雑になるので本文では触れないが、ここで注記しておきたい。

 本文で触れたように、インドの娯楽映画は「階級」の基準に照らせば中産階級に帰属する文化だが、「ポピュラーカルチャー/ハイカルチャー」の区分で考えれば主に「ポピュラーカルチャー」に帰属する文化であると考えられる。「中産階級/大衆」「アート映画/娯楽映画」「ハイカルチャー/ポピュラーカルチャー」といった区別と分類法はいずれも不完全なものであり、曖昧さを含んでいる。ここでは、議論を過度に抽象化しないために、インド亜大陸のより具体的な文化史の見地から考えてみたい。

 ストーリーを語る文化として、農村を含むインド各地の広範な社会で共有されてきたと思われるのが各種の叙事詩である。(ここで言う「叙事詩」は、よく知られた『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』のような、主にサンスクリット語などのテキストに記され伝わった叙事詩というよりも、例えばラージャスターン地方のパーブーやゴーガーといったある種の神格をめぐる口承歌謡としての叙事詩、あるいはパンジャーブ地方でアラブ・ペルシア起源の多くの物語と混淆して広く共有されてきた様々なキッサーといったものを指す。むろん『ラーマーヤナ』が各地に口承で伝わった様々なヴァリアント=異本を持つように、テキスト/口承の区分も必ずしも明確ではない。)こうした各種の叙事詩をインド亜大陸のオリジナル・ポピュラーカルチャーであると仮定するなら、映画メディアの登場までに、これらの叙事詩はまず19世紀のいわゆる大衆演劇(パールシー演劇など)に採り込まれるプロセスの中で、イギリス経由の西洋近代演劇の内容・形式と混淆している。インドのいわゆる娯楽映画が19世紀後半~20世紀初頭に全盛を極めた大衆演劇の内容と形式を受け継いでいることはよく知られているが、それはすでに近代西洋「ハイカルチャー」との混淆を経た文化だったのである。他方、叙事詩などインド在来の「ポピュラーカルチャー」に映画の分野で最も真摯に向き合ってきたのが、マニ・カウル(Mani Kaul、1944~2011)やクマール・サーヘニー(Kumar Shahani、1940~2024)といったインドの「アート映画」を代表する映画作家たちであることは論を俟たない。彼らの試みの特色は、題材としてポピュラーカルチャーの諸要素を採り上げたのみならず、映画製作の視点と方法=自らの考え方の中に叙事詩などのポピュラーカルチャーが持つ形式や方法を採り込もうとした点にあった。(これは世界的に見ても特異な試みであり、インド国内を含め、今日に至るまで彼らの作品は正当に理解・評価されているとは言い難い状況にある。)このように考えると、インド娯楽映画について、それが叙事詩や大衆演劇などの文化要素や性格の多くを受け継いでいるためにポピュラーカルチャーの色彩が強いと考えることができる一方、インドのアート映画の一部もまた、別のかたちでインド在来のポピュラーカルチャーを本質的に受け継いでいると言える。

 筆者がこうした説明をこの注で長々と行った理由(そして本文でインド娯楽映画が中産階級の文化であることを強調した理由)は、日本を含むインド国外の評価において、「インド」を一定の文化的「本質」を持つ単位であると設定したうえで、インドのアート映画は欧米の影響を大きく受けているのでインドの文化的本質を反映せず、娯楽映画こそがインドの文化的本質を反映していると(ほとんど無意識に)捉える見方が蔓延しており、これに反論したいがためである。

[10] 日本では1960年代に都市人口が農村人口を上回り、これと同時にいわゆる農村社会の自律性と独自性が失われた感がある。今や日本は地方の農村部まで広義の都市中産階級文化を共有している状態なので、今の日本人にとってインドにおける都市と農村の乖離の実態を想像するのが難しいのも事実だと思う。筆者自身も、インドにおけるこの乖離の全体像を想像・把握できているとは思わない。

[11] 日本語版ブルーレイ00:01:38~00:05:58

[12] 今回筆者が参照したクライテリオン社の英語版ブルーレイでは、こうした移民たちの声の各言語名が英語字幕で画面に表示される。なお、これらの談話は(少なくとも設定上は)ムンバイーの通りすがりの無名市民の声を拾っただけなので、各言語の標準形による発音であるとは限らない。日本語版字幕では、日本人に馴染みのないこうしたインド言語名の表示は省かれているが、これは読みやすさ・分かりやすさを重視する字幕制作の原則に基づいた判断である。

[13] 日本語版ブルーレイ00:15:50~00:17:00

[14] 筆者が長年過ごしたジャンムーの町は、地元民のいわゆる母語はドーグリー語(パンジャーブ語の方言)だが、至近距離にパキスタンとの国境があり、印パ分離独立期や第二次印パ戦争時にパキスタン側から移住してきたヒンドゥー教徒たち(西パキスタン移民)や、1990年代初頭にジャンムーのすぐ北のカシミールでゲリラ闘争が激化した際、カシミールからこの町に難民として移住したカシミーリー・パンディットたち(カシミールの少数派ヒンドゥー教徒)など、様々な事情でこの町の外からやって来た人々が大勢居住する「移民の町」としても知られている。町の人口における外部者比率が高いため、町の商店街などでふつうに話されるのはたいてい共通語としてのヒンディー語である。筆者はジャンムー大学に留学する前、日本でヒンディー語の基礎を学んでいたが、ヒンディー語に関する専門的な教育を受けたわけではない。留学当初ほとんどヒンディー語を話せなかった筆者は、自分のヒンディー語というのは、ちょうどインド人の出稼ぎ移民と同じようなかたちで、地方都市ジャンムーにおける日々のコミュニケーションの中で必要に応じて身に着けたものだと考えている(大学の授業や自分の研究の言語は英語だったので、ヒンディー語は純粋に日常会話と生活のためのものだった)。田舎町ジャンムーに日常的に英語を話す人はほとんどいなかったし、外国人の自分が英語を話せば敬意を表される反面、よそ者扱いされる。インドの地方社会ではステイタス上、英語を話せる人間は英語で会話するものであり、ヒンディー語で話す人間は「英語ができない、知的水準の低い人」として蔑まれる。このためステイタスを気にする外国人はインドでは英語で会話するわけだが、筆者は蔑まれることより、よそ者扱いされることのほうが嫌なタイプだった。田舎町ジャンムーで筆者はほぼ唯一の外国人だったが、幸いこの町にはモンゴロイド系のラダック人学生が多く滞在し、同じくモンゴロイド系で、ラダック人よりさらに外見が東アジア人に近い北東インド人の出稼ぎもちらほら働いていた。つまり日本人の筆者にとって、外見に基づくよそ者扱いが不可避な状況ではなかった。会話をヒンディー語で行いさえすれば、筆者はジャンムーの町と社会に溶け込むことができたのである。だから日常会話は、耳学問で得た少ない語彙を最大限に駆使して、すべてヒンディー語で行った。このため、ジャンムー大学の寮で知り合った筆者のインド人の友人たちは、筆者が英語を知らないものと長年思い込んでいたくらいである。

[15] あえて言えば、モーディー首相が自らの選挙区とすることが多いヒンドゥー教の聖地ヴァーラーナシーなどでは、ヒンディー語は第二言語ではなく第一言語として存在する。ただし、より正確に言うなら、ヴァーラーナシー地元のヒンディー語はボージプリー語=ヒンディー語の東部方言であると考えられており、いわゆる標準的なヒンディー語ではない。またモーディー首相自身は、ヴァーラーナシーがあるインド北部ウッタル・プラデーシュ州の出身ではなく、西インドのグジャラート州出身であり、彼の母語はグジャラート語である。ちなみにインドの首都デリーは、どれかと言えばパンジャーブ語圏に属し、地元の人がくだけた調子で内輪で話すときはパンジャーブ語が使われることが多い。むろん首都デリーは人口における外部者比率が高い都市であり、そこで人々が最も一般的に話すのは比較的標準的なヒンディー語である。デリーやムンバイーのような大都市では、もともと第二言語だったヒンディー語が広範に使用され続けた結果、移民第二世代、第三世代としてこれらの都市のネイティブとなった人々にとっての母語と化している(次回検討するように、カパーリヤー監督自身もそうした移民第二世代である)。これは磯田光一が『思想としての東京』で描いた、江戸とその文化を地方からの移民による標準文化としての「東京」が乗っ取ったプロセスに似ていると言えるかもしれない。

[16] 例えば、現政権によるヒンディー語ナショナリズムを“Hindistan”(ヒンディー語の国)を作ろうとする試みとして揶揄したインド週刊誌『アウトルック』特集号(2022年5月9日号、URL:https://www.outlookindia.com/magazine/193858)を参照。

[17] インドにおけるこうした英語の役割とあり方は、「インド(India)」という地域概念と枠組自体が実質的にイギリス植民地時代に成立したものであることと関係している。

[18] 日本語版ブルーレイ00:12:26~

[19] クライテリオン社の英語版ブルーレイを参照。

[20] 筆者もかつてインドで、スマホ登場以前の簡易な携帯電話で、こうした省略形を使ってインドの友人たちとSNSのやり取りをしたものだった。00年代半ばのことである。当時のインドの携帯電話ではアルファベット以外の文字を打つのが難しかったため、ふだんは英語を使わないようなインド人も簡略な英語でSNSを送信する場合があった。

[21] 日本語版ブルーレイ00:13:21~

[22] 2011年のインド国勢調査に基づくインド政府出版物Women & Men In India – 2016の第3章(URL:https://mospi.gov.in/sites/default/files/reports_and_publication/statistical_publication/social_statistics/WM16Chapter3.pdf)より。インドの国勢調査は10年毎に行われるが、2021年の調査結果は未だ公表されていないため、現時点の最新情報は2011年の国勢調査に基づく数値である。なお同資料によると、2011年に州別で最も高い識字率を示したのは、これまで通りケーララ州(=マラヤーラム語圏)であり、男性96.1%、女性92.1%だった。この事実は、『光と想うすべて』に登場するマラヤーラム語圏からムンバイーへの出稼ぎが主に医療従事者であること、彼ら(プラバーと医師マノージ)の間で高度な文学性を持つ詩のやり取りが自然に行われることなどの背景を形作っている。

[23] ウィキペディアのインド識字率の項目では、2015年のインド全体の15~24歳の識字率が92%という数値をあげている。(URL:https://en.wikipedia.org/wiki/Literacy_in_India)[2026年4月10日最終閲覧]

[24] この節におけるデータはすべてRukmini S., Whole Numbers and Half Truths: What Data Can and Cannot Tell Us About Modern India. Chennai: Context, 2021、第9章(How India Lives and Where, 225-249)より。著者のルクミニー・Sはデータを駆使した論説により、かつて『ヒンドゥー』紙の名コラムニストとして鳴らしたジャーナリスト。

[25] Rukumini S.前掲書、237-238。なお経済移民は当然ながら、できるだけ近場で移動しようとするものであり、ムンバイーにおける移民の最大の移住元は(パールヴァティーのように)地元マハーラーシュトラ州内であり、次が近隣のグジャラート州やカルナータカ州である。[同書233]

[26] 日本語版ブルーレイ00:06:32~

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