“ツーリストカップル”が見た経済危機下のスリランカと『ラーマーヤナ』
マラヤーラム語映画『Paradise』が示すパースペクティブ

南インド映画研究者の安宅直子氏による、マラヤーラム語映画『Paradise』の紹介記事をお届けします。
インド映画タイムズ 2026.03.07
誰でも

2月に日本で公開されスマッシュヒットとなったタミル語映画『ツーリストファミリー』(2025)を観て、2022年のスリランカの経済危機の実態について思いをめぐらした人がいるかもしれない。主人公一家の故国の惨状は、温かな雰囲気の同作中では台詞でしか語られないため、ややもすると深刻さが想像しにくい。しかし、まるで同作の合わせ鏡のような、インドからのツーリストがスリランカを旅する設定の『Paradise〔楽園〕』というマラヤーラム語作品が2023年に公開されており、現在NETFLIXで英語字幕付きで鑑賞することができる。

『Paradise』あらすじ

『Paradise』はインド・スリランカ合作、監督プラサンナ・ヴィターナゲはシンハラ系スリランカ人、メイン演者はインドのケーララ人、重要な脇役はシンハラ系スリランカ人、プレゼンターはタミル語映画の巨匠マニラトナム監督がオーナーであるマドラス・トーキーズ。劇中の言語はマラヤーラム語、シンハラ語、英語、タミル語、ヒンディー語と多言語状況をそのまま取り込み、英語字幕で鑑賞する前提の作りになっている。

2022年6月にインドのケーララ州※からスリランカを訪れた若いカップル、ケーシャヴ(ローシャン・マーテュ)とアンム(ダルシャナ・ラージェーンドラン)。2人は結婚5周年の記念旅行でスリランカ中央高地のヘリテージ・ホテルにやってきた。ケーシャヴは新進映像作家、アンムは作家志望のブロガー。彼らは運転手アンドリュー(シャーム・フェルナーンド)をガイドにして「ラーマーヤナ・ツアー」を楽しむつもりだ。スリランカでは同年4月に国家財政が破綻してデフォルトを宣言する事態となり、一般市民の生活も極限状況に追い込まれ、当時のラージャパクサ大統領の辞任を求めるデモが中枢都市コロンボをはじめとした各地で激化していた。高原地帯は比較的平穏だが、それでも食料や燃料の流通停止などに憤激した一般の人々が街頭で抗議を行う。その脇を観光客のため特例でガソリンが支給されている彼らの車は走り抜け、貸し切り状態のホテルに戻れば手の込んだ食事が供される。こうした状況が分かっているはずの2人はなぜスリランカに来たのだろうか。

※2026年2月24日にインド中央政府は、ケーララ州からの長年の要請を承認し、正式な州名を「ケーララム(Keralam)」と変えることにゴーサインを出した。しかし-am語尾が属格で-aに変わるドラヴィダ語のルールをどうするかなど問題を含んでおり、今後どのような運用になるかは不明である。様子見をしながらも、本稿では従前よりの「ケーララ」を使用する。

著者注

ホテルに着いた最初の晩、2人の客室に3人の覆面の賊が押し入り、iPhoneなどの電子通信機器を根こそぎ盗んで逃走する。キャリアの突破口となるはずの大きな仕事を得たばかりだったケーシャヴには大打撃で、翌日警察に届け出をする。すぐに警察の捜査の網にかかったのは近隣の農園で働くタミル人の若者たちだった。そこからカップルと周囲の状況は大きく動きはじめ、驚愕の結末へと至る。

なぜカップルはスリランカへ向かうのか?「ラーマーヤナ・ツアー」とは?

本作を通して様々な形をとりながら強い印象を残すのは、時にあからさまに、時には非常に曖昧な形で示される支配・被支配関係である。「God’s Own Country(神が祝福した国)」のキャッチフレーズで世界中から観光客を受け入れているケーララ州出身のカップルが、自身が観光客となった際に、子供を含む現地人たちに取る態度は、見る者を落ち着かなくさせる。ヘリテージ・ホテルは、インドでもスリランカでも、多くの場合は植民地時代の英国人や地元の領主の邸宅を改築したもの。そこに滞在すると、結局かつての支配階層のようにふるまわざるを得なくなるところがある。シンハラ人の警察官による同じスリランカの住人であるタミル人農園労働者への扱いは言語道断だが、残念ながらそれはインド映画でもお馴染みのものだ。ヒンドゥー教徒だが神話に対しては醒めた目をもつ現代的なカップルと、自身はシンハラ人キリスト教徒だが、仕事として『ラーマーヤナ』ゆかりの地を案内する初老のドライバーとの対比。決まりきった説明をするアンドリューに対し、アンムは「世界には300もの『ラーマーヤナ』異本が存在する。ジャイナ教版の『ラーマーヤナ』ではシーターが自らラーヴァナと対決して彼を殺す。そこではラーマは彼女の戦車の御者だ」と教える。インテリと非インテリの知識の格差を示すかのようなこの台詞は、後のシーンに響く。仲の良いカップルであるはずのケーシャヴとアンムの間にも、盗難事件をきっかけに支配・被支配が影を落とし始める。

そもそも、『ラーマーヤナ』とは、「ラーマーヤナ・ツアー」とは何だろう。『ラーマーヤナ』は『マハーバーラタ』と並ぶ古代インドの二大叙事詩の一つ。詩聖ヴァールミーキにより3世紀ごろに成立したとされる。ランカー島の支配者である羅刹王ラーヴァナに攫われた妻シーターを追い、ラーマ王子がインド北部からランカー島に攻め入り、ラーヴァナを滅ぼすとともに妻を取り戻し凱旋するまでを主筋としており、日本の桃太郎民話の源流ともいわれる。謀略や姦通などが多く描写される『マハーバーラタ』(家の中に『マハーバーラタ』の書物を持つべきではないという迷信もかつてあった)とは異なり、理想の王であるラーマを中心とした『ラーマーヤナ』の勧善懲悪の物語は分かりやすい。また、上記のアンムの台詞にあるように、様々なバージョンが存在し、イスラーム教徒版すらあるという。

悪王ラーヴァナが支配していたランカー島が今日のスリランカのことだというのは、古い時代から通念としてあった。今世紀に入ってからの研究ではラーヴァナのランカー島はスリランカとは無関係とする学説も出ているが、一般の人々の間にまでは浸透していない。悪王ラーヴァナの本拠地に比定されたスリランカの住人は多くが仏教徒であるため、『ラーマーヤナ』は外国の詩文学でしかなく、民族の精神的支柱とはほど遠い。一方で、ラーヴァナをシンハラ民族の偉大な王たちの一人とみなす考え方もある。ラーヴァナこそが有徳の大王だったという「裏返しのラーマーヤナ」は、実は南部を中心にインドにも存在している。現代の作家が『ラーマーヤナ』の再話をする際もこの転倒は好まれる。マニラトナム監督による『ラーヴァン』(2010)もまさにこれだ。スリランカで通俗版『ラーマーヤナ』の有名シーンの舞台とされる場所を巡る「ラーマーヤナ・ツアー」が催行されるようになったのは2000年代の終わりごろから。26年間続いた内戦が2009年に終結したスリランカは、外貨獲得の有力手段として観光開発に力を入れはじめ、インド人客向けの目玉としてこの聖地巡りが旅行商品となったのだ。劇中に現れる幾つかのゆかりの地も、伝承があるというだけで、考古学的な裏付けは全くない。本作『Paradise』も神話の翻案や再話ではない。しかしアンムの前に現れる鹿など、ところどころに照応するモチーフがあり、だんだんと“嫌なラーマーヤナ”を見ている気分にさせられる。

なお、本作に登場するタミル人は、『ツーリストファミリー』の主人公一家が属するスリランカ・タミル人(紀元前後から北部を中心に定住し、全人口の11%程度)ではなく、全人口の4%ほどのインド・タミル人と呼ばれる人々。19世紀に中央高地の茶・ゴム農園の労働力として英国人により連れてこられた。両者の間にはあまり交流がなく、内戦の際にもインド・タミル人は中立を保ったという。彼らのすさまじい歴史を描いたインドのタミル語映画に『Paradesi〔さすらい人〕』(2013・未)というものがある。こちらもお勧めしたい。

その他の参考リンク

・スリランカ政府観光局によるラーマーヤナ・ツアー特設サイト

・古都キャンディから直線距離で30kmほどのロケ地Sir John's Bungalow

・ラーマーヤナ異本研究の入門書である『Many Ramayanas : The Diversity Of A Narrative Tradition In South Asia』(Paula Richman著)


・ヴァールミーキ版『ラーマーヤナ』の原典訳『新訳ラーマーヤナ1』(中村了昭訳、全7巻)

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