リピート鑑賞にお勧め!『カーンターラ 神の降臨』をもっと知るための読書案内(安宅直子)
安宅直子氏が、石井美保著『環世界の人類学 南インドにおける野生・近代・神霊祭祀』を手がかりに、作品の背景にある南インドの自然観や神霊文化を読み解きます。
●本エッセイには『カーンターラ 神の降臨』のストーリーの結末に至るまでの言及があります。本編をご覧になってからお読みになることをお勧めします。
●文中の敬称は省略しています。

©2022 Hombale Films. All rights reserved.
『カーンターラ 神の降臨』(2022)は、カルナータカ州沿岸地方トゥルナードの濃密な地域性を帯びたローカル映画でありながら、州全域でヒットし、他州からも注目を集めたため、配信用に考えられていたヒンディー、タミル、テルグ、マラヤーラム語版が遅れて劇場公開(さらにトゥル語版も限定公開)され、全国的大ヒットになった。憑依のシーンの迫力、秀逸な音楽、森林浴のような気分にさせる清冽な映像などにより、予備知識なしで楽しめるが、同時に背景を知りたくなる作品でもある。
本作のテーマであるトゥルナードの神霊信仰については、幸いに日本語で読める複数の文献がある。そのうちのひとつ、石井美保著『環世界の人類学 南インドにおける野生・近代・神霊祭祀』(2017、京都大学学術出版会)をひも解き、作品の世界を探りたい。同書は、文化人類学者の石井が、マンガルール近郊の農村で通算約15か月に渡るフィールドワークを行い、「村落部に生きる人々の社会的な関係性と、神霊祭祀を通して具現される、人間と神霊、そして野生の領域との関係性」を「具体的な出来事とその歴史性に焦点を当てて多角的に検討」(P.34)した学術書である。

リシャブ・シェッティの出生地ケラーディからほど近いナガラ村の風景。この一帯はトゥルナードでも内陸部にあり、マレナード(山の国)と呼ばれる地方とオーバーラップしている。『カーンターラ』にもケラーディという地名が登場する。(撮影:安宅直子)
南インド・カルナータカ州西部のアラビア海沿岸地域のうちの南部をトゥルナードという。州都ベンガルールを擁する内陸地方とはさまざまな面で文化が異なり、州の公用語であるカンナダ語と並んで、ローカル言語であるトゥル語が話されている。
歴史的にはジャイナ教が栄えていた時期が長いが、16世紀にポルトガルがインド西海岸を侵食するようになり、特にゴアを手中にしてからは、その地のバラモンたちが南下を始めてトゥルナードに定着し、それによりヒンドゥー教が主流になったという。トゥルナードで経済的・社会的に有力なカースト集団(中間カースト)はバンタ(バントとも)と呼ばれ、ジャイナ教時代から母系制をとっていた。この母系制は社会がヒンドゥー化しても持続し、現代においてすらその慣習に従う人々もいる。バンタ・カーストにはシェッティ、ライ、ヘグデ、バンダーリなどの姓をもつ人物が多い。本作の主演・監督のリシャブ・シェッティもバンタに属する。
『カーンターラ』では、冒頭の19世紀の神話的な王はバンタ・カーストで、もしかしたらジャイナ教徒かもしれない。王位が母系制で継承されていたことは、王に助言する宗教家が「賢きおじのような力と母のごとき無償の愛」と述べる言葉に分かりやすく示される。王にとって重要なのは父ではなく、母とその兄弟なのだ。1970年になると、曖昧ではあるが母系制から父系制への転換が行われたように見える。ボンベイ在住の都会かぶれの若い末裔は、先祖とブータ(後述)との協約に意味を見出さない。若者は、傍にいる実父から遠くなく継ぐ領地が「土地改革(改正)法」(後述)により失われる可能性に焦り、裁判で所有権を確定しようとする。映画中の現在時である90年の地主は、頓死した70年の若者の息子であること、またその幼い息子が後継ぎであるとして村人に言及されており、父系制に転換していることが明らかだ。
トゥルナードでは、ブータ(尊称ではダイヴァ)と総称される神霊への信仰が伝統的に篤い。ブータはシヴァやヴィシュヌなどのヒンドゥー教の神々とは異なり、それぞれの土地に根付いた無数のローカル神格で、非業の死を遂げた英雄から動物に至るまで、さまざまな属性を持つ。先住民である山地トライブ(部族)の人々の信仰が平地部の民にも取り入れられ、ジャイナ教時代を経てヒンドゥー教とも曖昧な形で共存しながら生き続けてきた。神霊の行跡は基本的には口承譚や民謡として伝えられ、聖典を持たない。トゥルナードの、主として農業に従事する村落部では、村単位でブータ・コーラと呼ばれる祭礼が慣習法に則り行われてきた。ブータ・コーラの最大の特徴は、カースト制度の最底辺にあるダリト(かつて不可触民と呼ばれていた人々)が儀礼の場で特徴的な色鮮やかな化粧と装束で踊り、神霊に憑依された状態で託宣を行うのがクライマックスであるという点だ。演者(世襲され訓練を受けている)は、神霊が憑依している間だけは、領主・大地主など上位のカーストの人々に対して優位の存在となる。

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神霊と村の結びつきを語る縁起が詠唱された後、演者に乗り移った神霊が下す託宣は、村落内の序列に応じた順番で一人一人の信者に対し個別に行われ、一般に内容は極めて具体的な助言・叱責・励ましなどである。部外者にとっては、毎回儀礼のたびに演者が都合よくトランス状態に陥り神が降りてお告げすることが可能なのかと、素朴な疑問が湧くこともあるだろう。それは実は『カーンターラ』の重要なモチーフのひとつでもあり、1970年の若者は「神霊と演者、どちらの言葉だ?」とうそぶき、90年の地主もシヴァの従弟グルヴァに対して「憑依するのは一瞬で、あとは君が話すだろ?」と嘲る。一方、シヴァが初登場する水牛レースの場面では、銃刀工房の主人マーデーヴァは「水牛は突進する、力のかぎりな。だがメダルをもらうのは飼い主だ」とシニカルな独白をする。これは直接的には地主による村民の搾取を皮肉ったものだが、それ以外の意味もあるかもしれない。さらに、シヴァの父に乗り移った神霊は「託宣が演者の言葉だというのなら再びまみえよう。神霊の言葉なら再びまみえることはない」という意味の言葉を残して森に消える。託宣は本当に神霊の言葉なのか、それとも演者が自分を含む村の誰かの利害を代弁しているだけなのかという懐疑の問いかけは、実は本作の続編『Kantara: A Legend – Chapter 1』(2025・未)においても繰り返される。
ダリトの踊り手に神霊が憑依し、そこで一時的に社会的な位階の転倒が起きるというのは、何とも劇的で、心を奪われるが、これは祭礼の一部でしかない。まず、祭礼の参加者は村の各階層の人々であることを知っておく必要がある。祭主は中間カーストの王/領主/大地主であり、また別に重要な役割を担う司祭が存在し、この司祭もほとんどの場合中間カーストに属する。それ以外にもさまざまな役割を分担する人々が参加して(『カーンターラ』ではムスリムの村人アッブまでもが、粗製手投げ弾に点火して賑やかすという役割をこなしていた)、豊穣を祈願すると同時に、全体としては村の中の位階秩序を確認する象徴的な場となっている。
そしてひとたび祭礼が終われば、憑坐の演者は、上位カーストにとって“触れると穢れがうつる存在”に戻る。地主デーヴェーンドラ・スットゥールがシヴァや従弟グルヴァに対し、どのように身体的に接近するか/接近を回避するかに注目して本作を観ると、村落共同体の中の規範が浮かび上がり、また両者の関係性の変化が分かる。
『環世界の人類学』は、祭礼の前段階として行われる「カンブラ」という儀礼を紹介する(P.70)。司祭役の男が単身山に登り一夜を過ごし、神霊への呼びかけをする。翌朝戻ってきた男は、用意されている水牛と共に、地主が保有するカンブラと呼ばれる農地の水を張った田圃に走り込む。そして翌日、そこに一握りの稲苗を植える。石井によれば、それは山/森が持つ野生の力(シャクティ)を人間が浴び、それを平地の田圃に運び込む行為なのだという(P.170)。『カーンターラ』では、常習的に夜の森に入り(罰当たりにも)猪狩に興じ、さらには森の外れの自宅そばの樹上に「カイラーサ」(シヴァ神の住処であるヒマラヤにある山の名)名付けた小屋を建て悪さをしているシヴァが、水牛レース(これもまたカンブラ/カンバラと呼ばれる)の場面で文字通りに田圃の泥にダイブしていることに重なる。
そして祭礼の当日、神像や神具が収納されているバンダーラと称される庫から祭りの場に向けて、輿に乗せられた神霊の像が巡行する儀礼がある。庫から輿に神像を移す際には司祭の男が神霊に伺いをたてる。この際に司祭は憑依状態になり、その口を借りて神霊によるゴーサインが出ると巡行が始まる。ここでは、クライマックスでダリトの演者が踊る際とは異なり、司祭は化粧をせず、特異な装束もまとわない。この二重の憑依現象はブータ・コーラの特徴のひとつである。この司祭はマーニまたはパートリと呼ばれ、祭主である領主/大地主以上にアクティブに進行に関与していく重要なプレイヤーである。その重責については『環世界の人類学』P.102以降で詳説されている。『カーンターラ』では劇中歌「何たる美しさよ」のシーンがこの儀礼に対応している。この儀礼の最中、ダリトの演者であるグルヴァは建物の中に入ることを許されず、外から拝んでいる。
上記の巡行に付き従う集団の中にいるラージーヴァという中年の男に注目したい。ラージーヴァはまず水牛レースの司会として登場する。地主には及ばないながらも村社会の中でそれなりの地位にある人物なのだ。そしてバンダーラの管理者としてグルヴァを慰撫し、その後地主の本性が明らかになると、対抗勢力としてのシヴァと森林官ムルリダルとを繋ぐ役割を担う。過去には、トラブルから中止されたブータ・コ-ラを自分のところで引き受けてもいる。一方地主は「神霊の装飾を持ち帰った奴」と陰口を叩く。このトラブルは1970年の地主の息子の訴訟騒動と関係があるのかもしれない。ラージーヴァは最終シーンで神霊に未来を託される人々の輪の中にいる。

インドの多くの地域で路傍に無名の神が祀られているが、トゥルナードの場合、それはブータである可能性が高い。(撮影:安宅直子)
そして森林官ムルリダルの立ち位置の鮮やかな転回も本作の脚本の妙といえるだろう。『環世界の人類学』にある〈近代法に優越する「至高の法」としての慣習法〉(P.213)は、『カーンターラ』劇中では、神霊により取り決められた、王の心の安寧とトライブの民の土地の使用権というバーターの協約だが、その協約よりもはるか後に成立した国家の近代的な法を体現する人物として彼は現れ、シヴァや村人たちを保護すべき山林への侵犯者とみなし鋭く対立する。これはまさにトゥルナードで実際に生じた、〈山野の深部に棲まう究極的な「土地の主」としての神霊〉(P.252)のもとでの村落共同体の世界観と、近代国家の法治の理念との間に生じた齟齬そのものである。シヴァはムルリダルに向かい「村は政府より昔からある」と言い放つ。その後ムルリダルは自身の職分に背くことなく齟齬を解消する道筋を示し、最後には神霊が統べる共同体に包み込まれる。
現実の歴史で生じた、国家の法と伝統的共同体のシステムとの間でのせめぎあいのひとつとして、1973年にカルナータカ州で成立した「土地改革(改正)法」をめぐる動きがある。『環世界の人類学』では、第八~十一章(P.251~)の4章を割き、この法改正をめぐる70年代の変動を詳説する。地主階級の大土地所有に上限を設け、同時に小作人に土地を分配して自作農として自立させることを企図したこの急進的な法律は、しかしさまざまな抜け道が仕込まれ、たとえば法律の施行前に地主が小作人を自領から追い出し、土地分配を要求できないようにするという手荒な手段が取られることもあった(P.367)。70年の地主の息子のエピソードの前に、両親と幼いシヴァが追放されて野を行くシーンはまさにこうした史実と符合する。
以上、『環世界の人類学』から読み取れる『カーンターラ』の世界の成り立ちを手短に紹介した。本書は学術書ではあるが読みやすく、映画中の描写のうちの何が現実に即したもので、何が映画的な誇張・単純化・虚構なのかを考える助けになる。
…常人とは異なる神霊の力を示すエピソードとして、神霊自身が「消え失せる(māya āpuni)」、あるいは他者を「消え去らせる(māya maḷpuni)」という出来事が繰り返し詠われていることは興味深い。このことは、人々と神霊の関係性において、神霊の現れにはその消失が常に伴っており、存在者の姿をとった神霊が忽然と「いなくなる」ことこそが、その者が本来的にマーヤの領域(引用者注:人間界とは異なる、神霊の力に満たされた不可知の領域 -P.35)に属するものであることを示す重要な徴候として受けとめられていることを示唆している。 (P.135)
この一節を読んだ時には、筆者の頭の中で何かがカチリとはまる音が確かに聞こえたのである。

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『カーンターラ』は同年の『K.G.F: CHAPTER 2』に次いで、カンナダ語映画としては空前のヒットとなったが、一方で激しい論争を巻き起こしもした。その最大のものが、“文化の盗用(Cultural Appropriation)”論議である。先住民の流れをくむダリト・トライブの独自の信仰の発現であるブータ・コーラを矮小化し、ヒンドゥー教の“大伝統”(シヴァ神やヴィシュヌ神など大神への信仰。サンスクリット語の宗教文献に記され、バラモン階級が排他的に神事を取り仕切る信仰世界)の劣化版や地方的亜流であるかように取り込んだことは問題であるというのが、主として左派や欧米的なリベラル陣営からの非難だった。
劇中で2回流れる印象的なソング「ヴァラーハは最強の力を持つ神なり(中略)シヴァの神髄を体現し地上で栄える存在なり」の歌詞が問題視された。特に終盤でこれが流れることで、猪の神霊パンジュルリがヴィシュヌ神の化身のひとつである猪頭のヴァラーハと同一であるかのような印象を与えることが批判された。『カーンターラ』の劇中では、南インド映画でよく見かける鮮やかな彩色のゴープラム(塔門)を持つシヴァやヴィシュヌの寺院は画面に一切現れず、ビジュアルはトゥルナードらしいすがすがしい簡素さに終始しているが、このソングのサンスクリット的語彙を駆使した詩句だけが火種となったのだ。そしてリシャブ・シェッティ自身が、複数のインタビューの中で、ブータ・コーラはヒンドゥー文化の一部であると明言したことで議論は沸騰した(他に、神霊を大衆娯楽である商業映画の中で描写することの「不謹慎さ」を巡る議論もあったが、ここでは割愛する)。

ヴィシュヌ神の化身のひとつ、ヴァラーハの像。カルナータカ州ベールールのチェンナケーシャヴァ寺院外壁の浮彫。(撮影:安宅直子)
アメリカで生まれ育ったカンナダ人で、映画俳優かつ社会活動家のチェータン・クマールは、『カーンターラ』とリシャブを批判する急先鋒で、先住民がもともと持っていた独自の宗教文化であるブータ・コーラを、その彼らを抑圧してきたヒンドゥー教の信仰の中に取り込んで読み替えてしまうことを“文化の盗用”と断罪した。それに対し、草の根のヒンドゥー教原理主義者たちによるチェータンへの攻撃はすさまじく、チェータンのSNSを炎上させるだけではなく、彼を刑事告発しようとする者まで現れた。実際にブータ・コーラで演者をつとめるダリトの当事者たちの一部も、それぞれの考えから両方の陣営に加わった。
筆者はこの文章の中でどちらかを支持して結論を出すことはしない。左派は科学を信奉し迷信を退けるのが基本姿勢であるはずなのに、マイノリティーの信仰となると持ち上げるというダブルスタンダードがある。そこを突かれるのを回避するかのように「抑圧に耐えてきた底辺の人々の魂の芸術を正当に評価・保護しなければならない」という審美的方向にシフトすることもある。一方の右派には、それまでブータ・コーラに関心を払ったこともないのに、映画が成功すると「ヒンドゥーの偉大な文化」と持ち上げ、自我の拡張と同一視して即席のプライドに浸る者も少なくなかった。そして意見を異にする者をイージーに“反ヒンドゥー=非国民”と攻撃する。しかし、こうしたさまざまな議論から浮かび上がるのは、結局“ヒンドゥー教とは何か”という、簡単に答えの出ない問いなのである。
ヒンドゥー教には多数の聖典が存在するが、バイブルやクルアーンのような根本聖典を持たない。また、カトリックにおけるバチカンのような総本山も存在しない。紀元前1500年ごろにインダス河流域に住み着いたアーリヤ人が奉じるヴェーダ聖典に基づくバラモン教が、その後ゆっくりとガンジス河流域にまで到達し、各地域に古くからある基層文化としての土着宗教(その担い手は先住民やドラヴィダ人など)を取り込んで咀嚼しつつ、今日人々がヒンドゥー教と考えるものが成立していった。よく言われる、シヴァ神が土着の神格を取り入れる際には別の名前を名乗り土地の女神と婚姻を結び、ヴィシュヌ神の場合は化身として取り込むというのは、広く認められる事象である。そのシヴァ神ですら、土着信仰由来であるという説もある。読み換えの手続きを経ず、土着神が元々の姿や名前のままで大寺院の構内の片隅で、あるいは寺院の外壁に埋め込まれた小さな祠の中でひっそりと佇む光景もしばしば見られる。古い時代に寺院への入構を許されなかったダリトやトライブの人々のためにそのような造りがなされたのだろうか。ともかく、包摂的な性格により無数の神格を取り込み今日の姿になった、ヒンドゥー教とされるものの中で線引きをするのは極めて困難であり、だからこそ対立する政治的セクト間で常に論争が絶えないのだ。

タミルナードゥ州中部の街クンバコーナム、シヴァ神を祀るカーシー・ヴィシュワナーダル寺院の外壁にあるマドゥライ・ヴィーランの祠。マドゥライ・ヴィーランは主にダリトの人々から信仰されている地方神。(撮影:安宅直子)
英文総合誌としては異例の『カーンターラ』特集を組んだ「FRONTLINE」誌2022年12月2日号(特集:The KANTARA phenomenon)でも、複数の論者の異なる見解が示された。民俗アートに詳しい研究者ギータ・ジャヤラージは以下のように記す(引用者による試訳)。
ブータ・コーラやテイヤムが行われるトゥルナードやコラナードでは、プラーナ文献(引用者注:ヒンドゥー教主流の大伝統の神々について記した聖典群)との結び付きを示すこの種の歌は珍しくなく、しばしば拡声器で流されている。神霊たち自身も、シヴァ、ヴィシュヌ、パールヴァティーの「アンシャム(amsham、部分)」と名乗り、プラーナ系の神々との直接的なつながりを示している。ヒンドゥー教の生き残り戦略は、古くからあらゆる在地の神々・礼拝・信仰(さらには異端的な哲学)をその懐にまるごと取り込んでいくことにあった。今日のヒンドゥー教は、ブータ・コーラやテイヤムのような在地の無数の実践・儀礼の総体であり、現代のヒンドゥー教徒の生活は、民族的・政治的な必然により生まれた多様な実践が奇妙に混ざり合ったものだ。『カーンターラ』はそれを映しだしているのである。
一方、カンナダ人の映画研究者M・K・ラーガヴェーンドラは、パンジュルリを独立した信仰対象とみなす人々が現在も存在する可能性を示唆する。
本作はヒンドゥー至上主義者たちから称賛されているが、神霊を国家に対置することは難しい問いを投げかける。パンジュルリは主流ヒンドゥー教の出自ではない。そこでは、その信徒たちの自律への希求と、主流側の包摂への試みとの間での衝突が示唆される。パンジュルリの顕現のひとつは猪の姿であり、それはヴィシュヌ神の化身ヴァラーハとして解釈される。しかし、猪が化身と見なされるようになったこと自体が、そうしたバラモン側からの取り込みの一環であった可能性があり、ヴィシュヌ神への言及なしに猪を崇拝する集団は今なお存在しうる。言い換えれば、パンジュルリが「ヒンドゥー」として受け入れられるか否かにかかわらず、その神霊は自律的な存在と意義を持ち、信徒にとっては主流宗教と一体化して語られる必要はないのである。
先住民文化に由来するとされる神霊崇拝と一般的なヒンドゥー教の宗教慣行との関係を考えるには、隣のケーララ州で行われるテイヤム祭祀について知ることも助けとなるだろう。トゥルナードの南隣、ケーララ州北部のカンヌール県とカーサルゴード県では、テイヤムと呼ばれる神霊祭祀が盛んで、トゥル文化とケーララ文化が共存する州境地帯ではブータ・コーラとテイヤムの両方が行われているところもある。テイヤムは、赤を基調とした化粧・装束や、祭文がマラヤーラム語で唱えられることに明確な特徴があるが、世襲で役割を受け継ぐダリトの演者に神霊が憑依して託宣することなど、ブータ・コーラとの共通点も多い。伝統的には母系制が優勢な社会的背景のもとで継承されてきたことも同じだ。ケーララ州の観光業界がこのテイヤムのイメージを積極的に活用していることもあり、知名度はブータ・コーラを上回る。また学術的な蓄積も厚く、文献も多数ある。アクセスしやすいものに、古賀万由里著『南インドの芸能的儀礼をめぐる民族誌――生成する神話と儀礼』(2018、明石書店)や竹村嘉晃著『神霊を生きること、その世界 インド・ケーララ社会における「不可触民」の芸能民族誌』(2015、風響社)があり、いずれもフィールドワークに基づいた研究成果である。
『南インドの芸能的儀礼』では、テイヤム祭礼の歴史と慣習、個々の事例を詳細に解明かし、さらにテイヤムの神話の生成過程が分析される。そして時代の流れの中で変わってゆく祭礼と社会とのつながりにもページが割かれる。一方、『神霊を生きること』では、テイヤムの演者の生活誌の記述にボリュームがある。先に挙げた『環世界の人類学』も含め、いずれの研究でも、土地の神霊にまつわる祭礼にバラモンの僧侶がさまざまな形で参与していることが述べられている。それだけではなく、ローカルの神霊にヒンドゥー教の大伝統の神々がオーバーラップする現象は、必ずしも後者が前者を征服し、打ち負かした結果という単純な話ではないことが読み取れる。古賀は、このオーバーラップを「両者からの歩み寄りにより生じた、平行的な融合」(P.124)と評し、テイヤムの神話の生成を詳細に記述しながら以下のように述べる。
地域の英雄神をプラーナ神の化身とみることは、人々の知識のブリコラージュによって生じた見解であるといえる。また、プラーナ神の化身としたところで、地域の英雄であることには変わらず、サンスクリット文化の完全なる模倣ではないのである。(中略)人々の思考回路によって形成された、民俗文化とサンスクリット文化の自然的融合である。
これらからは、上述の論争にあるような「マイノリティーの固有の宗教か、ヒンドゥー教か」の明確な線引きが現代において困難なことが分かる。
一方、『神霊を生きること』で印象的なのは、テイヤム演者の家に生まれた男性が、家業から逃れ中東産油国への出稼ぎで財を成すことを望みながら、結局演者となり、幸運と精進とにより精神的・経済的に安定するまでのライフヒストリーを記述したパートだ。「祭儀の場で受けた傷(引用者注:おそらくは火渡り儀礼の際の火傷)の痛みに耐え、伝承を維持することに苦悩」(P.28)した青年時代から、転機が訪れ「自分なりのテイヤム神のスタイルを確立したい」(P.204)との意識が芽生え、「自らヒンドゥー寺院に毎日通い、寺院関係者や高カーストの人びととの交流を通じて、徐々に宗教的素養や振る舞いを身につける」(P.238)という境地に至る変容は、まるで映画のようなドラマチックさだ。
また竹村は、テイヤムのイメージがマスメディアやローカルメディアにより消費される現状を1章を割いて詳説している(P.133~)。観光業界、左翼政党、出版・広告業界、映画・演劇界などにより、テイヤムはいわば“フリー素材”化し、インターネットの拡散力とも相まって混沌とした状況にある。ここで、つい最近福岡市総合図書館の「インドの南へ/ケーララ州の映画作家たち&映画批評家・佐藤忠男の旅」で再上映があった『神の戯れ』(1997)に対する現地での反応が紹介されている(P.159~)のが興味深い。シェイクスピアの『オセロー』を翻案し、主人公をテイヤム演者に設定した同作は、映画界では格調高い試みとして受け入れられ、国家映画賞をはじめ多数の賞を獲得したが、テイヤム演者や研究者からは情け容赦ない批判が展開されており、ここだけでも読む価値が高い。
著者プロフィール/安宅直子(Naoko Ataka)
南インド映画研究者。映画評論サイト「BANGER!!!」やウェブニュースレター「インド映画タイムズ」に不定期に寄稿。編著に『南インド映画クロニクル』(PICK UP PRESS刊)。『RRRをめぐる対話 大ヒットのインド映画を読み解く』(PICK UP PRESS刊)では編集を担当。他に『新たなるインド映画の世界』(共著)など。
映画情報

出演:リシャブ・シェッティ、キショール・クマール・G.、アチュット・クマール、サプタミ・ガウダ他
監督&脚本:リシャブ・シェッティ
KANTARA(原題)/2022年/インド/カンナダ語/148分/配給:ツイン
©2022 Hombale Films. All rights reserved.
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